転倒の顛末~要介護3の透析高齢者が「終の棲家」にたどりつくまで~(終)

8月26日火曜日
 面会に行く。ふとんに潜り込むようにして寝ている。声をかけても起きているのか眠っているのか、疲れてやる気のない様子だが、しっかりリハビリをしているのだろうか、聞きたいのだが明瞭な答えは期待できないのでやめておく。それでも、用意した地図で叔母の家や我が家との位置関係を説明すると、目を開けて聞いている。
 入院時の服を持ち帰り、ソックス兼用スリッパと透析に使う止血バンドを洗ったものと取り換え・・・。小さなノートに姉からの伝言があった。私がわざと速達で出した入院案内の手紙に感謝し、娘だとわかってくれたが疲れた様子だったとある。24日日曜日に面会している。この日は母の誕生日だ。靴下と小さなブーケの飾りのようなものがあった。何も持ってこないように書いたつもりだが、手ぶらは嫌なのだろう。冷え性で足が冷たくなってしまうので、寝る時も履いていたのは透析以前のことだが、コロナ狂騒の数年間親に会おうとせずに放置の『長女』にはわかるまい。それでも、最終形態に近い姿を見せることが出来て、『長男』としては気が楽になった(面会の際の記帳に「子」ではなく詳しく書けとあるのだが、「長女」と「長男」だと優先順位に違いがあるのだろうか?長子と庶子で差別するなど時代がかっている)。
 隣のベッドでは、これも困ったガサツなおばさんが、母親らしき病人に「8万円払ってる」やら「家に戻っても面倒みれない」とか、おそらく同質のおとなしい患者たちがみな身につまされるような現実を、かすれた大声でがなっている。そのようなことを会話できるだけ、まだましだと、ガサツはガサツなりに理解する日も近いだろう。

 私が思いがけず味わった喪失感はすでに薄らいだが、代わりに懐かしさがしみ出てくるようになった。
 まだ若く元気な母と小学生の私が、2人で何度か鎌倉を歩いて回ったことがある。母がなぜ鎌倉めぐりをしたのか、その動機は聞いていないが、1979年に鎌倉幕府の草創期を扱ったNHK大河『草燃える』が放映されたので、その影響かと思う。
 北鎌倉駅で降りて、『てくてくまっぷ』というイラスト化された案内図を買い、それを元に神社仏閣を徒歩で巡る。大人になってからの私なら、事前にいろいろ調べて段取りをつけておきながら、現場ではテキトーに行動するのだが、母の場合は特に何の用意もなく、『てくてくまっぷ』に頼って、そこに書かれたところを巡っていった。小学生の私にはこだわりは無いので、母に従ってひたすら歩く。
 浄妙寺には行った記憶がある。北条氏によって滅ぼされた比企一族の屋敷があった場所だ。鎌倉宮に行った記憶もある。ここは鎌倉幕府の滅亡後、足利氏によって幽閉された護良親王が暗殺されたとされる場所だ。・・・さすが鎌倉、どこもかしこも血なまぐさいが、案内板以上のことは知らないだけに、当時の母子にはそれほどの思い入れもなく、ひたすら、てくてくてくてく歩いた。
 そう、何しろイラストチックにデフォルメされたステキな地図なので、道幅の違いなどよくわからず、迷う。坂道を歩いて登っても目的地に着かないので、庭木の手入れなどをしている地元のおばさんに尋ねると、そこよりも「こっちのお寺が風情があってお勧めよ」、と親切に道順を教えてくれる。そこで、その「こっちのお寺」に行くのだが、案内板もなく歴史チックなストーリーに結びつかないので、風情がわからないてくてく母子には、やはり何の感慨も残らなかった。・・・あれはどこだっただろうか?何の由緒もない寺社などないので、実は結構重要なスポットだったかもしれない。そのうち面会の際、話題にしてみよう。元気に聞いて答えてくれるのを期待できるうちに。

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