8月4日月曜日
次女叔母より電話あり、三女叔母と見舞いに来たが、意識朦朧状態だったとのことだ。透析直後はそういったものだと言うと、三女叔母の手紙を置いたので、読み聞かせてやって欲しいとのことであった。
8月5日火曜日
明日、Sa病院へ行って面談の上転院となる旨本人に伝える。少々リハビリをしたらしく、ぼんやりしており、どの程度理解できているのかはっきりしないが、急に転院する可能性があるので、そうなっても驚かないように伝える。
依頼があったので、手紙を音読する。子供のころ勉強を教えてもらったことに感謝する内容で、それが三女による長女への印象の最たるものらしく、私も何度も聞いている。我が母は若い頃はやたら勤勉だったらしい。
8月6日水曜日
13時過ぎ、自転車でSa病院へ向かう。網代橋を渡り一路南下、20分弱で着いてしまったので、道を引き返しスーパー&ホームセンターを見て回り、13時45分に受付に来意を告げた。
担当医師、看護師長、事務、薬剤師、担当相談員と代わる代わるお話をしたが、ここでよほどの問題行動をしない限り、受け入れてもらえるはずなので、結局、さしたる意味は無かった。月々の支払いは7万数千円の見通しとの試算で、それは年金以内であった。ただ、満床のため空き待ちで、遅くとも今月内には転院との話であった。これは、現在の病院の都合には合わないが、私にはどうしようもないので、平日の午前中なら仕事を早退して対応できる旨伝える。
透析病院が療養入院に積極的な理由は、送迎する必要がないのが大きいものと思う。実際問題として、不自由な高齢者を週3度送迎するのは、困難な作業なのである。
結局、介護保険では救われず、医療保険のセーフティーネットに救われたが、よほどのことがない限り、我が家に戻ることはないだろう、などと考えながら、14時半頃、外に出ると雨が降り始め、瞬く間に土砂降りとなった。
下見をしていたスーパーで雨宿りを兼ねて買い物をするつもりだったが、行きつく前にぬれねずみだ。この状態でスーパーのような涼しいところに入ると、一発で風邪をひくと判断し素通りする。あまりの豪雨に前も見えなくなるので、普段は絶対にしない傘をさしての自転車走行を行う。よろよろ北上、ところどころで雨宿り休憩を取りつつ、雷の鳴る中、網代橋を渡り、家に帰りつくやいなや、晴れてきた。修行にしてはずいぶんな滝行であった。
8月7日木曜日
昨日Sa病院に行き面談し、日程は未定だが転院する予定となった。月々の支払いはテレビ見放題にしても、年金でまかなえる旨、当人に伝える。手の平を出すので、ハイタッチしておく。
おそらく、母の心配は入院費用にある。昔は実費が多く必要だったので、入院と言えばまずお金の問題となったのである。その点、私は公的な医療保険で多額の出費は抑えられるのを身に染みて知っているので、さして不安はない。不安は生活費の方で、2人暮らしが1人暮らしとなって、どのように切り替えるか、であった。食費は半分以下にできるが、光熱費などを半分にすることはできない。
足がまともに動かず立ち上がることも出来ず、車イスでの姿勢の維持も難しければ、透析のための通院も出来ないので、療養型に入院する以外の選択肢は無いだろう。・・・終の棲家になるのだろう。
8月9日土曜日
Sa病院への入院の際に必要な連帯保証人の署名を、叔母に書いて欲しいので、病室に置いておく。いつ来るかわからないからだが、渡せなければこちらで「私文書偽造」的行為に及ぶ予定だ。本人に叔母が来たら渡すように、いちおう伝えたが、わかっているのかわかっていないのか、よくわからないのが困ったところだ。
8月12日火曜日
ヘッドフォンをしてテレビを見ており、調子が良いようだ。顔色も良くなっている。和子叔母が来た気配なし。入院費の請求書もない。そろそろ先月分の支払いではないかと、時間の合間に行ったのだが、拍子抜けであった。
8月13日水曜日
午後、埼玉協同病院の担当者から電話あり。斎藤記念病院より18日午前中に転院可能との話であった。
転院の際はコロナ感染の検査を求められていて、7000円の実費負担になる旨の話であった。ただの風邪扱いに2年以上前からなっているので、感染していたところで入院の拒否など出来ないだろうに、なぜそのようなことを続けるのか、はなはだ疑問だが、現場の看護師に言っても理解しようともしないだろうから、笑っておく。
面会の制限も同様だが、コロナの問題は感染の有無ではなく感染した場合の重篤化にあり、感染に限るなら、咳による飛沫を防ぐことにある。すでにコロナの毒性は弱まり、対処法も周知され、ただの風邪として特別視する必要はないことになっているのに、医療機関が最も理解していないようだ。
自由民主主義国家では、個人は自由が基本で、その権利は可能あ限り尊重しなければならない。個々の病院が勝手にマイルールを定めて、自由権を侵害するのは最低限でなければならないが、そのあたりの遠慮がないから、一般社会の常識と乖離して問題が生じるのだと思う。医療従事者は専門家なので、一般常識をわきまえないことも多いだろうから、病院職員には一般常識が病院でも通じるように頑張ってもらいたいものである。
転院と連帯保証人について叔母に連絡しようと思っていた午後5時に、叔母から電話があったので、Sa病院への転院その他について話し、絶縁した姉一家には、転院次第に手紙を書くので、心配無用の旨も伝えた。糖尿病が悪化して家じゅうをしょんべん臭くても何も感じないような認知症状や、杖を使っても歩行が出来なくなっていく身体障害、当然のように透析通所が必要になり、予想通りに車イス生活で玄関前はスロープ化するようなことにもなっているにも関わらず、何もしない姉などと言う存在を私は認める気がないので絶縁状を送って一切無視しているのだが、老いさらばえて療養病院で死を待つ親の姿は見せておくべきだろう。なお、姉には娘が二人いて両親と同居している。我が姪ながら残念な子たちなので、これも存在を忘れることにしているが(成人して親と違う行動が出来ないようでは恥ずかしい)、母から見れば孫なので、認識できれば顔も見たいだろう。
なお、この姉は、親の人格を否定するような行動なり言動があったようで、嫌われている。十数年前に亡くなった父は、脳幹出血で半身不随になりまともに話せないにもかかわらず、娘一家が面会にくると言うと「ブー!」などと唇を震わせて驚かせられたし、母はと言えば、前歯が欠けても金欠で治せない姉に対して、治療費を渡したらしく、いろいろ面倒を見たのに何もしない姉を憎悪している気配であった。そうであっても、孫の顔は見たいのではないか、と、常識人の私は思い、横浜市から埼玉県川口市転居してから、横浜の孫に会いに行かないのか、赤羽から京浜東北線で南下して東神奈川で京急に乗り換えれば良いだけで、帰りにハマケイのカブト焼きを買ってきてくれ、と具体的に言ってまったく動かなかった。孫に会いたくないのか尋ねると、「もう大きくなったから」と言う。大きくなった姿を見たいと言うのが一般的な人情のような気もするのだが、ようするに、人間性の希薄した関係と言う他ない。私が激怒して一家ごと絶縁を申し渡しても、別に何の反応もないのだから、祖父母も祖父母だが孫も孫で、気持ちが悪い人たちなのである。
8月14日木曜日
本人に18日に転院する旨を伝える。血色はよくなり、人相もまともになったが、完全に理解しているかは怪しいところであった。やたら手を出すのでハイタッチしておく。看護師さんか何かでそうする人がいるのかもしれない。
杖を持ち込んでいたが、使用するとは思えないので、持ち帰る。この杖は、本来床から起き上がるためのものだが、片手持ちの杖では空いた方で物をつかもうとしてフラフラになって危ないので用意したものだ。結局、使い方を完全に習得しないまま、この事態となった。両手で持って安定を確保して足を前に出す、これが出来ない。杖を持ち上げて片足立ちになればだれでも安定は保てないがそうする。右足をつま先足立ちするので親指にタコができていたいはずなのに、つま先足立ちをやめない。なぜ痛い指をかばう行動をしないのかわからないが、理屈は通じないのでどうしようもなかった。繰り返し熱演したのだが・・・、元々「運動音痴」で体の動かし方を頭で考えるような習慣がないと、どうにもしようがない。
8月17日日曜日
仕事の合間に病院に行き、着替えを病室に置き、いらないものを撤去する。この日はフワフワして元気がない。日によってかなり違うのが悩ましい。この病院は自転車で7、8分、その点では便利ではあった。
8月18日月曜日
仕事を早退し、徒歩で10時過ぎに1F窓口に転院の旨伝え、診療費の精算を行った。一カ月半ほどで7万円程度だから、医療保険は有難い。そういえば、テレビ代金の請求が先日来たが、こちらは1ヶ月1万5千円程度で年寄りには高すぎるかと思う。パソコンなど使わずテレビオンリーなら、半額くらいがレンタル代金として適正だろう。・・・これも保険適用したらどうだろう、などと思う。
介護タクシーを待っていると、車イスを押したお爺さんがやって来た。これに乗せると言う。ストレッチャーで運ぶと聞いていたが、知らぬ間に変わったようだ。声が甲高いので女の子かと思っていた男の子が、お世話を担当していてくれたらしく、車イスに移乗させてくれた。車イスに乗れるようになっているとは、驚きであった。その中性的な坊やに見送られて介護タクシーに乗って齋藤記念病院へ向かう。
途中家の近くを通ったが、特に歓声は無い。11時着の指定だったが、10分ほど過ぎていた。受け入れ側はストレッチャーを持ち出したが車イスに乗っているので驚いていた。・・・私の関知するところではない。10分では余裕が無いだろうと思ったが、出発時間を10時50分に設定したのもストレッチャーを使用すると言っていたのも病院側だ。どうにもしようがないし、どうにかしてやる気にはならない。
病院で荷物を渡し書類を渡し、書類をなんだかんだともらって帰る。今度は灼熱だ。前回は滝行・・・。どうやって帰るか考えながら、青木公園まで歩く。レンタルサイクルがあるはずだが、家の近くのレンタルスペースに空きがない可能性が高く、返せないようなことが有り得そうなので、タクシーに乗ろうと思ったが、まったく姿を見せないのでバスに乗って、碇消防署で降り、灼熱の中をてくてく歩いて帰る。
結局、何の役にも立たなかったが、ケアマネあての書類もあずかっているので、電話をしてSa病院へ転院した旨伝える。レンタルの車イスを引き上げる手配をしてくれるそうなのでお願いする。
14時近くなってSa病院より電話があり、退院届が未提出で、また、透析を受ける病院名を変更する旨、市役所で手続きを取ってもらいたいとのことだった。明日、市役所で手続きをしたうえで、病院に行く旨伝える。
透析は月水金で変わらずだが、昼時間帯なので面会は不可能とわかった。病室の様子はわからないので、明日、面会して様子を見てから叔母に連絡することにして、絶交した姉とその娘二人宛てに手紙を書く。私は会う気も話す気もないが、母娘、祖母孫の関係は動かないので、長期療養になるのを知りながら無視するわけにはいかないと思ったのである。もちろん、」これが死んだとなれば別で、報告もしない。なぜなら、葬式その他を仕切る私が絶縁した者に報告できるわけがないのである。
母の代理として、娘とその娘たちに、面会可能な曜日と時間帯、その他、面会人数二人という制限があり、一家そろってのイベント化するのは不可能な旨書いておく。余計なことは一切省く。
8月19日火曜日
仕事帰りに市役所に行き、手続きを済ませる。窓口の女性は人当たりの良い人であった。地方役人もいろいろである。市役所の郵便局で姉家族あての手紙を速達で送る。
炎暑に苦しみつついったん帰宅し、昼食を食べ一息ついてから、自転車でSa病院へ行く。やはり20分で着く。1Fの受付に必要書類を提出し、2Fへ行く。館内は節電のためか暗い。ナースステーションの奥で看護師さんたちが数人群れている。カウンターの端に面会の際に記帳するようになっている。手前には顔を寄せて検温する装置がある。とりあえず記帳していたら、親切な看護師さんがやって来て、検温後、病室へ案内してくれた。3F 。病室は昔々の大病院、私の知らない半世紀以上前のそれのようで、建物は古いが清潔で広く、病床は散り散りに存在している。患者たちは一様に静かで、水槽が多く並んだ部屋のようだ。
奥の部屋の奥に母はいた。すこぶる元気な様子であった。顔色が良く目がぱっちり開いている。案内してくれた看護師さんの話によれば、ナースステーションでしばらくおしゃべりしていたらしい。他人に対しては愛想が良いのだ。費用は年金内なので、生きている限り黒字部分が収入になりこちらも助かる。長生きしてください。と伝え、ひどい悪天候でなければ、火曜日に面会に来る旨伝えると、「火曜日」と繰り返していた。
途中のスーパーで買い物をして帰途につく。夕方に叔母に無事転院した旨報告した。
7月31日Bo病院で受けた説明から、もはや家に戻ることは無いと確信した後、私は大きな喪失感に揺れることになった。あれも出来ないこれも出来ない母が気の毒に思えたのである。
その間いろいろ考え、自分が手間のかかる大きな動物を飼育している感覚で、いわばペットロスの状態に陥ったものと理解することにした。愛着の対象が消えれば喪失感に苦しむのは当然だ。さらに、家族内で末っ子の位置にある私は(父母、姉、私)、無自覚だがおそらく家族に対する承認欲求が強くあり、それも人間的な言葉や態度での感謝を必要としないもので、例えば、食事を作って食べる際に「おいしいね」の一言もなく、モクモク食べるだけでも納得できていたようだ。
長年、粗大ごみの如き役立たずの夫の生活を見てきた奥さんのようであり、障害を抱えた大きな犬の介護を続けて看取った飼い主のようでもある。考えてみれば、そうなりそうなものだと想像できたはずだが、十数年前に脳幹出血が元で亡くなった父にしろ母にしろ、親なので他とは違うと漠然と思っていたのが精神的なもろさにつながっていたようだ。
父が亡くなった頃には、もはやしっかり者の母ではなかった。2002年脳梗塞から一命をとりとめたものの後遺症があり、以来、努力をしないで流されるままで、家族のために料理をすることもなかった。順調に認知症状が進み、歩行も難しくなっていき、不摂生がたたって糖尿病が悪化して腎不全となり、尿漏れで悪臭を放っても周囲に配慮も出来ず、バスにも乗れなくなって、趣味の書道もやめ、好きだった平岩弓枝の時代物も読まなくなった。昨年1月から透析を受けるようになってさらに加速度的に「枯れ」ていき、すぐに数段の階段も登れず車イスと他人の介助を頼るようになった。今は四半世紀近い年月の結果に過ぎない。
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