転倒の顛末~要介護3の透析高齢者が「終の棲家」にたどりつくまで~(4)

7月25日金曜日
 特に変化なし。意識はあるが衰弱状態で寝たきり、何もやる気なし、と言った感じだ。
 18時過ぎにソーシャルワーカーより電話あり、透析を受ける病院名の変更を市役所で行い、また世帯を分離したことで減免手続きをするように依頼を受ける。当然ながら、土日、役所は閉まっている。いろいろ考え、月曜日に宿泊客を帰した後、市役所へバスで行くことにする。酷暑つづきなので自転車は控えたのだ。

7月28日月曜日
 夕方市役所に行く。月曜日の夕方だったが空いていた。高齢者福祉課の窓口はやる気なさそうな女性で、書面に病院の住所を記載するように言うので、病院の住所など知らないので、お調べください、と丁寧にお願い・・・すれば良かったが、実際は「病院の住所など覚えますか?」「診察券などに書いて・・・」「本人入院中で家族が所持していると思いますか?」との会話となった。私は、役人と病院事務の敵なのである。減免手続きは、隣の窓口だ。こちらも、あまり待たされず、こちらの窓口は出来の良さそうな男性で、申請の翌月から適用される旨を記載した、新たな健康保険証(の代わりになるもの)を交付してくれた。

7月29日火曜日
 指示通りに整えた書類を持って病院へ行く。担当のソーシャルワーカーがいたので、書類を渡すと、先ほどBo病院より連絡があり、引き受け可能なので面談したいとのことであった。最短は31日午前10時とのことで、平日午前中は仕事があるため不可能と言ったものの、他はより難しい曜日の同時間帯だったので、31日に仕事を早退して行くことにする。
理解できているかは怪しいが、母にも転院の可能性を伝えておく。

7月31日木曜日
 早退し、京浜東北線の北浦和駅下車、旧中山道を徒歩立ちで北上してBo病院につき、正面玄関窓口に来意を伝える。
途端に、健康証やら障害者手帳などなどを求められ、コピーされたので驚いた。入院すると決めたわけではないのに、なぜそのような個人情報の塊を求めるのだろうか?
 さらに、検温のため体温計を渡されたのにも驚いた。コロナ対策で検温検温と日本でだけ大騒ぎしていたが、何の役にも立たないことを情報整理して気づけない医療機関がまだあるとは。しかも、脇で挟む検温器だ。2019年以来の新型コロナは咳によって空気中にウィルス飛散して、かなりの広範囲で吸引による感染を起こすものだ。熱発するのは感染後に肺炎症状などが起きた結果なので、検温は予防にはほとんど意味をなさない。もし感染しているとしても、検温するより咳症状の有無が感染拡大防止には決定的に意味を持ち、そのためマスク着用が重要となってくる。それが科学的な理屈だ。つまり、非科学の迷信に基づく病院内でのみ通用する内規を、患者の面会する権利など、人権を無視して強制していることににしかなっていない。
 ただ、病院関係者はみな優秀に見えた。窓口は親切で、ソーシャルワーカーも看護師も説明をされていた医師も同様であった。副院長らしい医師の説明は年齢的にリハビリで克服するのは難しい旨の説明は腑に落ちると言うより、いつも感じている内容を裏付けてくれるものであった(認知症で努力が出来ない)。
問題は、この極度に感染対策をしたがる体質の病院は、万全なるが故に、面会を月に1回と、コロナ禍並みの対応を続けている点にあった。これでは親類の面会も出来ず、ボケ老人はさらにあっさり呆けて、その様子を知らない親類たちを葬式に呼ぶことになってしまう。
 それでも、呆けて衰えて死ぬのは、必然で、多少の時間的な違いだけなので、その間、安全で清潔な病院で(新築である)、安穏に過ごすのも幸せかもしれない。また、面会については緩和されるだろうし、緩和するように働きかければ良いだろう。そういうのは得意だ。
 午前中で都合の良い日は水曜日かと尋ねられたので、6日と20日が休みの旨を答えると、現在の病院に電話をし、6日に転院することになってしまった。・・・これは、他の選択肢がなかったので、早めに転院させようとの意図だろうと考え、それならやむを得ないと思った。しかし、親類と面会も出来ずに誰が誰で自分が誰かもわからなくなりながら最期を迎えるなど、身から出た錆とはいえ、気の毒で仕方がなかった。
 家に帰ってから、病院に行って、6日に転院することになることと、面会がほとんどできないこと、場所はここで、病院は綺麗で、おそらく今より食べ物はおいしいだろう、と病院の案内をプリントしたものを片手に伝えたが、どの程度理解できたかはわからない。担当のソーシャルワーカーの姿が見えなかったので帰宅する。
 夕方を待って、叔母に電話して概要を伝えると、やはり面会が出来なくなる点で難色が強かった。それも当然かと思いつつ、着信履歴にソーシャルワーカーからのものがあるのに気づく。正午手前の着信なので、帰宅途中と思われた。折り返し電話をすると、代表電話で、患者様のお名前を聞いて誰が電話したか探すようなことを言うので、ノーサンキューした。代表電話からしか外に電話できないとは・・・。
 午後7時頃にソーシャルワーカーより電話あり。勤務時間はどうなっているのかと思いつつ、他の選択肢はない、つまり、Sa病院は受け入れ不能と言うことですね、と確認すると、そうではないと言う。比較対象が示されないと判断が出来ず、Boは素晴らしい病院に思えたが面会が月1回というパンデミック並みの体制により、親類から異論があるので、他の選択肢があるなら示してくれるように求める。意図せずちゃぶ台返しする結果になったが、救急の受け入れのためとはいえ、ソーシャルワーカーの対応は拙速と言わねばなるまい。こういう人は、わざわざ仕事を増やしてしまいがちだ。

8月1日金曜日
 昼、ソーシャルワーカーより電話あり。Sa病院に病床の空きがあるとのことで、6日午後2時より面談を行いたいとのことであった。しかしながら、当日3時に来客予定(宿泊のお客様のお帰り)があり、翌日7日なら空いている旨答える。7日も大丈夫と聞いたなどと言っていたが、その後7日は病院側の都合が悪いとのことなので、予定が変更可能かお客様の都合をお伺いして、もし6日に都合がつかないようなら、Sa病院にこちらから直接お電話する旨申し上げることとした。・・・結局、自分で段取りしたほうが早い。
宿泊のお客様は前日の夜にご変更可能とのことだったので、6日の面談に支障はなくなった。そこで、夕方、叔母に電話をして、Sa記念病院に入れそうなので、面会はしやすくなった旨伝える。

8月2日土曜日
 病院に行き、面会がしやすく叔母一族の家とアクセスしやすいSa病院に入れそうなので、Boの話は無くなった旨、当人に伝える。この日は顔色も良く、それなりに理解できたようだ。

 結局のところ、透析で寝たきりに近い状態となったために、療養型の病院に拾われる形になった。介護では寝たきり状態の高齢者に対し、大きな個室を用意し、呆けて何もわからない認知症に健常者同様の日常の楽しみを提供したがり、インスタ映えを気にしてせっせとレクリエーション活動の報告をするのだが、およそ無駄なので(そもそも空いているところに入るだけで、中身から選べる状態ではない)、介護施設も見直しが必要だろうと思った。
 本人には、車イスに座れるようになれば、帰宅できるとは言っているのだが、それは難しいものと思っている。現状を自覚して努力しなければならないが、認知症にそれは無理だからである。となれば、長期間居続けることを前提にしなければならず、月一回の面会、実質的に家族の代表者以外は面会できない体制は、酷なものになるだろう。呆け切って誰が誰かわからなくなるまでの話、1年あるかないかの期間だと思うが、無視はできない。
 かくして、要介護3、週3回の透析、徘徊したくても歩けない老母が、我が家を破壊する危険はなくなった。ただ、可能性はあるので、部屋を撤収するわけにもいかない。とりあえず維持しながら、年金の収入がなくなり家族がいなくなることでの収支を考えねばならない。
 厄介者がいなくなれば重しが取れて爽快だろうと思っていたが、案外に気は重い。本人は帰りたがっているようだが、私は不可能だと知っている。従ってうそをつかねばならない。それくらいの嘘は何でもないのだが、厄介者もいなくなるのに不思議な気分だ。寂しいとは少し違うが、長々と飼育していた押し付けられた生き物、そう、私にとっては、おやじが孫のために買ってきて娘に拒否られて、私が面倒を見たら巨大化してしまったミドリガメが、月光に誘われて行方不明になった時に少し似通った感覚だ。多少の開放感、多少の罪悪感、多少の寂寥感、多少の喪失感、わずかばかりの達成感、である。これにも慣れていくのだろう。

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