ガザも南京も

とりあえずのぞきこむタイシ

 文鳥が暗いところをのぞきこむのは、巣の中でヒナの位置を確認する本能だと思っているのだが、どんなものだろう。
 そのような、どうと言うこともない飼い主の日々の観察は、学問的には動物行動学と言える。先週、つけっぱなしのテレビに『ダーウィンが来た』が流れていて、「無駄遣いの公共放送の象徴!チャンネルを変えねば!!」と思いつつ放っておいたら、タコとそれを世話する少年の気持ちが通じる一瞬が映されていた。タコが脚を広げて少年を迎えているではないか!
 テレビのやることは信用できないので、すでに何度も繰り返していることを初めてのように演出している疑惑もあるのだが、画面からは、ぱぁ~~と広がる親愛の雰囲気、言ってみれば、「きずなオーラ」が広がっているのが感じられ、実に素晴らしいお話であり映像であった(金をかけずにああした話ばかり集めれば良いのだ)。
 あれこそ動物行動学だ。ノーベル賞の受賞者であるコンラート・ロレンツが、動物と話が出来るようになるソロモンの指輪などなくても、自分が飼育する動物たちの気持ちは理解できる、と断言しており、飼い主としてはまさにそれが問題なのである。言葉ではなく態度でわかってしまう、態度が無くても通じてしまう、これが飼い主が求めるべきものだろう。動物行動学など勉強しなくても良いが、一緒に遊ぶことを放棄したら何も通じ合えないのは当たり前で、一緒に遊ぶわけでもない人にわかるはずはない。日常の観察で心が通じるられるのは、世話をする人だけである。

 さて、ノーベル賞と言えば、アメリカのトランプさんは、今般、国際的なお尋ね者をレッドカーペットを敷いて迎え入れてしまった。相手は何の手土産も持たず、言いたいことだけ言って、撮りたいだけ撮って、会談が終わればすたこらさっさと帰っていったようだ。・・・トランプさん、あれだけなめられても平気な人も珍しい。通じていない相手を信頼してしまえるなど、頭の中の平和主義は徹底していると言えよう。
 トランプさんは超大国で民主主義国家の盟主たるアメリカ合衆国の大統領閣下とし、当然行う日常業務で「ピースメーカー」と世間から認められ、ノーベル平和賞を受賞したいらしい。ようするに、オバマさんに対する嫉妬であり、あの子が持ってるから自分もほしい、と駄々こねている幼児同然だが、あれを受賞させるようならノーベル賞など止めた方が良いだろう。もっとも、これまでも、オバマさんをはじめとしてまともな受賞者が少ないのが平和賞の特徴なので、少なくとも平和賞はやめるべきだと私は思う。ダイナマイト王の罪滅ぼしに付き合わされて、年寄りの受賞者たちを冬の北欧に呼びつけるなど、不見識の塊ではないか。

 平和と言えば戦争で、そうした話題も多かった。
 サッカー日本代表の中心人物だった本田さんが、1937年の南京事件について、故石原慎太郎などの意見に賛同して、事件そのものをほとんど無かったことと見なす意見に同調し、次いで「一次資料」から虐殺行為の事実を認める意見に変わり、さらに、どちらともわからず今後の課題、という気持ちになったらしい。そう若くもないのに、頑張って考えている様子が微笑ましいではないか。
 私も、計画的に市民を虐殺したようなことはあり得ないが、便衣兵狩りとしてかなり多くの市民が巻き添えになった、とする通説を支持する立場だ。もちろん私も、現在は国会議員である河村さんや百田さん同様に、当時の日本人の多くが文化的で高潔だったと信じて疑わないが、事件が無かったとするのは無理だ。なぜなら、当時、多くの市民に危害が及んだのを把握した大日本帝国政府も軍部もそれを抑止しようと訓示の類を連発していおり、何もないのにそのようなことにはならないからである。
 ただ、規模はわからない。暴行を抑止しようとしている政府なり軍部が、虐殺を計画立案したとも思えない(つまり、国家的「大虐殺」はあり得ない)。当時の日本軍は比較的には統率がとれていたし、市民生活を送っていた兵士も健全な思考の持ち主が圧倒的多数であり、敗戦後の極東軍事裁判で処刑されてしまった総指揮官からして、実際は東洋の連帯を唱える理想主義者で、中国の要人たちともごく親しい関係にあった人だ。つまり、一般市民に手を出してはいけないとするモラルが存在した軍隊なので、虐殺など起こるはずもなく、ごく少ない例外的な悲劇だと考えるのも、無理からぬところかと思う。
 私の祖父は、一方は戦場に行く前に亡くなっており、もう一方は小柄でやせていたので召集されなかったようだが、ようするに幼いころに社会で頑張っていたあの人たちが、若い頃に虐殺に加担したとは考えにくい。しかし、昨今のイスラエル軍によるガザにおける行為を見ると、戦場ではおかしなことになる者も多く、特に復讐心などから相手の民族の人命を軽視した場合、多くは理知的な兵士でありながら、虐殺にしか見えない行動をとってしまっている。平然と非戦闘民どころか女子供に発砲し、恬として恥じない。敵の指導部の人物がいる。犯罪行為を多く行った人物であり、抹殺すべきだ。とここまでならあり得るが、その犯罪者と見なしうる人物を殺害するため、周囲に一般人がたくさんいて巻き添えになることが確実であっても、一切考慮しない。巻き添えは残念だが仕方がない。で済ましてしまっている。
 昔の大日本帝国陸軍の将校も兵士も異常者はごく少なかった。現在のイスラエル軍の将校も兵士もそれは同様だろう。ところが、相手方の人命を軽視していないと言えるだろうか。軽視していれば、虐殺は起こりえるとしなければならず、それは、一つ一つは小規模でせいぜい百人などの程度でしかなくても、虐殺行為が有ったか無かったかと言えば、はなはだ遺憾だが「有った」だろう。
 普通の人、よりのんびりと温和な人でも戦場でも、虐殺行為を起こし得る。昔、フランキー堺が、墜落したアメリカの爆撃機の搭乗員を刺殺するように命じられ、試みたが果たせなかったにもかかわらず、戦後、捕虜を殺害した罪を問われて処刑される理髪店の店主を好演した『私は貝になりたい』は、伝説的なテレビドラマとして知られるところだ。内容はフィクションだが、軍隊組織は上官の命令は絶対で、個人の思想信条は無視され、敵の人権を認めない行為も起こりやすく、善良な市民が加害者になってしまいしかも冤罪をこうむることにもなることを、教えてくれる。さらに深読みすれば、人は、通常なしがたい非道な行動をしても、戦場だから、上官の命令だから、と理由をつけて納得し、平常の生活に戻ろうとするものだ、ということも示しているだろう。
 大日本帝国陸軍がいかに優秀であっても、兵糧を与えず現地調達などすれば、徴発の際に抵抗する住民に対して暴力をはたらく、中世の野盗同然にも成り下がりえる。平凡な市民のはずの兵士も、自分を封印して実行者になりえる。一つ一つの事件を丹念に検証したいものである。

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