
私の母親は現在入院中だが、透析しながら療養できる病院へ近日転院の予定だ。介護保険では要介護3になったばかりだったが、透析患者も受け入れてくれる施設などほとんどないので、どうしたものかと悩んでいたので、介護ではなく医療の方に受け皿があった、というわけで、私としては、何をしでかすかわからない不安に苛まれずに済み、それこそ福音であった。
が、不思議なことに解放感がない。むしろ喪失感が強く、帰ってくれば良いのに、と帰って来られたら、心身と時間的にとんでもない負担を被るのは骨の髄に染みているのに、考えずにいられない自分にを持て余している。そもそも、今現在、あの厄介で危険な大型哺乳類がいれば、お盆で他人の鳥をたくさん預かって、睡眠時間も無くなったと容易に想像できるのに、である。
で、これはなぜそうなのか考えた。基本的には、文鳥たち同様の位置づけで、20年来世話を見続けた者がいなくなったからだろうと思われた。さらに、自分の家族内での位置、両親と姉と私の中で、最期に生まれた以上、常に他の3人を見なければならず、何かをすれば、誰かが見ていてくれると期待したがる体質になって当然なので、他人に対しては承認欲求が希薄なので気づかなかったが、家族に対する承認欲求が強く根を張っているのではないかと、分析した。
これを逆に見れば、私が文鳥などの飼育を好むのも、承認欲求を満たす手段なのかも知れない。何しろ、ウチの両親などは、毎日息子が作ったご飯を食べながら、うまいもまずいも言わないので、まるで承認を受けている実感は持てなかったのだが(「ブタみたいに食べないで人間なら何か言うべきだ」とは繰り返し言っている)、それがため、話が出来ない文鳥たちがものを食べているだけで、承認欲求が満たされる感覚(「ありがとうチュンチュン」と言われている気がする。感覚的には喜びの気持ちが伝染してくる)と混同する結果になったのではなかろうか。
手間がかかるほど、何かしてやっている感覚が持て、何か感謝されている気になれるのだろう。我ながら素直なものである。
ところで、一羽っ子のタイシは自分のしたいがままに生きているが、実に良い子だ。手に乗って帰るし、ヒナにエサをあげる時もある(舌を引っこ抜くのではないかと心配になることもある)。ヒナ換羽時はぐぜるのをやめることが多いはずだが、何のお構いもなく練習に励んでいる・・・、となれば天才かも知れない。
私が歴代で天才と認めているのは、初代のヘイスケと9代目のキュー様だけだが、タイシはその列に加わるのだろうか?ただ、私の場合、特別な存在というのは作るのではなくそうなっていくものだと信じており(天才の両君も幼い頃は普通におとなしい子だった)、天才も凡才もどちらも等しくかわいいのを知っていて、ついでにオスよりメスは賢いので、だいたいが天才だということもわきまえている。つまり、特別だからなんだと言われたら、別にただの個性と言う他ない。
タイシくんがどういった個性を磨いていってくれるのか、承認欲求を満たしつつ、見守りたい。
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