学位って何だっけ?

 子供の数が減って大学受験生も減り、入試で稼げなくなったので、授業料で稼ぐことになった。大学に残られると新入生の募集を減らさねばならないので、馬鹿でも阿呆でも不真面目でも卒業させてしまっていたのが、そういう方々には長く在学してもらって授業料を払わせることにシフトした。大学当局など、いい加減なのである。
 多くの大学の運営は場当たり的で見識の欠片もないかもしれないが、制度は厳然として存在しており、卒業と中退(自主的に申告しての退学)や除籍(学費未納などで大学側の処分として退学)は違う。もちろん、橋下さんなど我々の世代は、入学希望者が多すぎて、受験して入学できれば立派とされ、卒業については問題視されなかった。しかし、当時の大人が間抜けだったからそうなっただけだ。20倍などと言う合格倍率(合格者は20人に1人)などになったら、さっさと定員を2倍にしてバラック小屋でも建てて収容すれば良かった。どうってことない。2倍にしても、どうせ出席者は少なくてガラガラだ。伊東の市長さんだった人のように、大学になど来ずに飛び回っている人がたくさんいたのだ。

 ところで、私は大学と言えば図書館の書庫と言うくらいにまじめな部類の学生で、文字通り「優秀なご成績でご卒業」したが(言ったもん勝ちじゃ!)、卒業証書を手にしたことはない。大学の卒業証書とは、卒業後に社会で卒業の証明を求められた際に、大学の事務窓口に行って交付を求めるもののはずで、普通は必要とされない。「え、卒業式でもらったアレじゃないの?」と思う四年制大学を卒業した人は、クローゼットから引っ張り出して見てごらんなさい。「学位記」と書いてあるはず。それは高校生までの「卒業できてよかったねバイバイ!」と学校がボール紙の管に入れてくれるものとは少し違う。「あなたを学士として認める」というものだ。知らなかったかもしれないが、苦労して単位を取得したのも卒論を書いたのも、ひとえに、この学士と言う学位を取得するための要件を満たさんがためだったのである!だいたい、「そつろ~ん」ってば、ほんまは「学位論文」言うんよぉ、知っとった?ねぇ、ねぇ?と、あまりにも誰も学位の存在を気にしていないのに絶望を感じ、どこかの方言が入り込んで壊れてしまったのだが、どうしたものだろう・・・。
 例えば、橋下徹さんは「除籍か卒業は大した問題じゃない」としている。「同級生」(上2年下2年は同じ学校にいた可能性が高いので同級生)、50代が味わった「入学するだけ優秀」という一時的風潮に過ぎず、実際は、学士になったかならなかったか、という厳然たる違いがある。もちろん、学位など現実的な意味などほぼ無いのだが、形式的には取得したかしないかという明確な違いを持つ。従って、大学を卒業した=学士になった、と詐称するのは許されないことになるのが、論理的帰結の形式美、なのである。卒業したかしないかではなく学位を持っているかいないか、学位を持たないのに持っているとすれば詐称であろう?形式的にはそういうことだ。
 この点、有能なホリエモン(堀江貴文さん)も勘違いされている(「Fラン私大の学歴詐称なんかどーでもいいだろ」。大学のランクがFでもランク外でも、卒業していれば学位記をもらったはずで、いかに馬鹿でも学士様を名乗れる。はなはだ遺憾ながら、Aランクなのであろう東大、入学しただけでステータスになるような旧帝国大学に在籍記録があっても、卒業しなければ学士にはなれない。つまり、学問的には学位のない人とされざるを得ない。個人的には、在学中に志を得て起業する方が卒業するよりはるかに偉いのだが、学位を持たない高卒と見なされのが、大学学問の世界観であると覚悟した方が良い。
 なお、ホリエモンが日東駒専をFランク、それ以下の偏差値?はランク外で大学の名に値しないと見なしているような発言をしたことを、私は微塵も恨んでいない。なぜなら、旧帝大以外は大学ではない、と言うより極端な認識は大昔から存在しており、むしろ、大学の部類と認めていただいているだけ意外なほどだ。ただ、学士でもなければ学問へ口出しする資格などない、とする認識も、これまた大昔から存在するところで、私から見れば、どちらも学歴メガネでくだらない、となる。学歴などあっても無くても言っていることが論理的でまともなら良いし、東大卒で学位は学士どころか修士さらには博士でも、バカはバカである。そもそも少子化により、昔と今では日東駒専に入学する者の偏差値は格段に変わっており(日東駒専でも偏差値は60足らずくらいだったはず)、30年以上前の感覚だと「てか偏差値35ってやっと読み書きできるレベルやろ」となる。時代は変遷し大学名に偏差値を結びつけてランク分けするのは無理なのだが、そうした面での時代感覚が古いことの自覚が無い人たちが、昔にとらわれているだけなので、今現在の人は真に受けず注意して聞いた方が良い。
 なお、武田鉄矢さんが年を取ってから卒業させてくれた、と言っていたようだが(「私、60歳で卒業証書、もらいましたよ」、なるべくそっとしてそう思わせておけば良い。細かい事情は知らないが、単位未了の者に学位を与える権限は大学にはないので、名誉学位のはずである(当時の大学当局が学費は納入していたので除籍扱いするのを避け、自主退学の中退の扱いをしたものと思われる。「コラ!テツヤ、何ばしょうとかいな」、おふくろ様のおかげで不名誉な除籍を免れたのだから、その点を有難く思いなさい!)。これは、大学に多くの寄付をした人などに対して儀礼的な意味合いで送るその大学内のみの称号で、感謝の気持ち以外の何物でもなく、特に公的な意味は無い。つまり、武田鉄矢さんはお母様には申し訳ないが依然として学位を持たない(「金八先生」にはなれない)。学位に意味などほぼないのだが、形式美が存在する以上、無いものはないとするほかない。したがって、万一武田さんが、地方でも国政でも選挙に出た場合、彼の最終学歴は卒業高校までにしないと、学歴詐称になってしまうので、周囲の人はご留意いただければと思う。

 大学へ進学する人が多くなった時点で、学位は形式美になっていて、その形式美すら気づかない人が多くなっていることを、今回のくだらない騒動は示してくれた。この際、大学の卒業時には、有効期限無限の卒業証明書を10枚ほどあげるだけにして、学位は与えず、今の修士を学士にして、後期博士課程で2年を経過したら修士とすれば良いのではないか、と個人的には思う。今回の学歴詐称で何かコメントしている有象無象に学位の認識が無さすぎて、みんな詐称しているのではないかと疑いたくなるくらいだ。形式美でも実態に合わせたいものである。

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