人喰い虎は野放しですか?

 取り返しのつかない行為や、償えない行為をしてしまったら、生きながらえる意味がないように思います。死刑については賛否両論あって当然ですが、この論議の上で誤解してはならないのは、死刑は被害者への償いのためのものではなく、償いようがないので死んでわびるに過ぎないという点かもしれません。本来なら、「死んでお詫び仕る!」と人間である自分が、人間として生き抜くために、自分自身に処さなければならないものながら、自分で首をくくるのは何かと逡巡されるので、制度上処刑して頂くだけのように思うわけです。
 何しろ、もし、自分の行為に対して認識し人間らしく考えることが出来るなら、他人の命を奪いながら、自らは生きながらえようとする結論には達しにくそうですし、何とかそのように思い込んだとしても、永久に後ろめたさを感じるのではないでしょうか?

 一方、犯罪時に心神を喪失し人間性を失っていたので、罪には問えないケースがありますが、私はこれはおかしいと思っています。なぜなら、死刑と言えば他人から下される処罰のようですが、前述のように基本的に自裁、「死んでお詫び仕る!」以外ではなく、それは切腹する武士に介錯するようなものだと結論付けているからです。もし犯行の瞬間に自分自身の意識が飛んでいようと、それの当事者が自分であると後で認識出来るのなら、「死んでお詫び仕る!」になるしかないのではないでしょうか?
 それでは、今現在も心神喪失状態が続き、自裁するのが無理な場合はどうでしょう。それを考えた時、私は人喰い虎の末路に思いを致さずにはいられません。彼らには当然人間性はありません。食べやすそうな獲物を襲って己の糧にしたに過ぎないのですが、さて、心神を喪失している罪の意識など欠片もない彼を、人間集団は許すでしょうか?
 私は断固虎狩りをすべきで、その人喰い虎を生かしてはおけないとする意見に賛同します。もしそれを野放しにしては、人間が安心して生活出来ないからです。何しろ誠に遺憾なことではありますが、人間でない者に教え諭すことは出来ず、個としての人間の弱さを心得て、それを襲うような生き物は、人間集団の敵対者として排除する以外にないからです。もちろん、圧倒的な数量の人間たちに狩りだされて、嬲り殺されてしまう一匹の虎に、人間的な罪は何一つないわけですが、人間社会の一員である限り、それを処分しなければならない存在なのも確かなのです。
 そこで心神を喪失した人は無罪とする人たちにお尋ねしたいのですが、心神喪失で人間性を失っている哀れな人間と、天然自然に生きて人間的な倫理規範など生まれながらにあるはずもない虎の違いとは何でしょうか?心身を喪失して他人の命を奪うような者を、治療したと称して、またその彼の心神を喪失させしめた社会に放り出せるなら、どうして罪のない人喰い虎を、また人を襲う危険性は十分以上にあったとしても、しばらく餌づけして野に放つという選択が出来ないのでしょうか?

 昔、飼育場から逃げ出した虎が、別に人を襲ったわけでもなかったにもかかわらず、その可能性があるとして追い回されて射殺されました。千葉県でのことです(1974年)。昨今、外見上は人間ながら、明らかに人間性を失った生き物が、何の関係もない老人を殺害し、さらに鉄道の駅で無差別殺人を行ったのは、隣県の茨城での出来事でした。
 虎は人を襲った実行犯ではなかったのですが、直ちに近隣住民に知らされ、夜間外出禁止まで布告されたようです。一方、最近の人間の外見をした生き物の方は、すでに何の罪もない人命を奪いながら、その生き物が逃亡しているのを一般人に周知されず、間抜けな私服警察官の面前で凶行が繰り返されてしまいました。
 飼育場から何となく逃げ出し山にこもった虎よりも、人を殺して繁華街に紛れた外見上人間の生き物の方が、人間社会の不安要因としては大きかったのではないでしょうか。にもかかわらず、なぜ野放しにして、麻薬密売人を逮捕するように、私服警察がこっそり駅で待ち伏せねばならなかったのでしょう。加害動物の捕獲よりも、被害拡大を防止しなかったのはなぜでしょうか?
 結局、裁判ともなれば、弁護士及び鑑定医師より「人間でない」と宣告され、罪にも問えなくなるのが目に見えている人非人を、その間抜けな警察官たちは、人間として見ていたのかもしれませんが、人間でないものを、人間の基準で推し量るべきではなかったように思います。

 人間社会の法秩序というものは、人間の社会集団が安心して生活出来るために存在しているのだと信じています。ようするに、大多数の健全な人間の市民を守るためのものでなければ、法が存在する意味は無いと思うのです。ところが、虎は人喰いどころかその危険性のみで処分されてしまい、人非人は人を殺してさらにその敵対行為を続ける危険性があっても処分しないようです。しかし、それでは、今後社会不安は高まるばかりではないでしょうか?
 処刑は本来刑に服するもので、人間である自らを裁く意味合いのものとすれば、確かに心神を喪失した人非人を処刑することは出来ません。それでは、なぜ虎のように処分しないのでしょうか。もちろん、それが生物学上人間である限り、人間性が再生できると信じるのも無理はありません。しかし、それであれば、少なくとも現在のように再犯せざるを得ないような状態、つまり、心神喪失を理由に無罪とし、適当な治療をしただけで、彼を人非人たらしめた社会に再び放り出すような制度は、早急に改めねばならないと思います。そうでなければ、罪に問えない以上、敵対動物として裁判などせずに処分せよ、と言った極端な状態に追い込まれるのも、それ程遠い将来のことではないように思えるのです(人間性を回復しながら、自己の起こした犯罪を背負って生き続けるのは、本来地獄の責め苦だと思います)。

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