家畜とペットを区別できない人と区別のない社会

3羽の子育てを終えたシルバーペア(レッコ&ギンタ)

 また、唐突ながら、サモエドと言う犬の品種がある。シベリアの極寒地で暮らすサモエド族が何千年にわたって飼育してきた犬で、大型で羽毛が長くふかふかしていて顔は笑っているように見えて、見るからにほんわかした印象を受ける犬である。そして、実際にほとんど例外なく温和で、誰とでも仲良くなってしまうので、およそ番犬にはならないとされる。そり犬にもなる怪力の持ち主でオオカミに近い犬種なのに、およそ野性味が無いのである。
 なぜそうなったのか、多くは人為的淘汰の結果とみられている。何しろ極寒地だ。サモエド族の人たちは抱き枕に出来るもこもこした温かな生き物を必要とし、おとなしくて眠りを妨げない個体を何千年にわたって、つまり何千世代にわたって優遇して繁殖を行った結果(意識しなくてもお気に入りの犬の子を増やそうとするので結果的に人為淘汰になる)、現在のほんわかなもこもこが出来上がったわけだ。
 しかし、現在のペットとしては問題も多い。極寒地仕様で密にダブルコーティングされた毛は、真夏の暑さでは不利に働くし、その抜け毛は家庭内での飼育では困りものとなってしまう。また、小型化して筋肉量も落ちてくれた方が、散歩に割く時間は少なくて済むだろう・・・。そのような外見や性質は同じでも、いわばペット仕様に変更された「サモエド」を作り出せば喜ばれそうなものではなかろうか。それこそ、人間社会の在り方に適した品種改良と言うものだろう。しかし、そのような考え方をする人は、そもそもサモエドを飼ってはいけないと、まず気づかねばならない。サモエドを自分流にカスタマイズなどできない。サモエドの性質に合わせて飼育できる人でなければ、数ある犬種からサモエドを選んで飼育などしてはならないのである。

 家畜では、肉質を良くする、早く成長させる、たくさんの卵を産ませる、といった、利用する人間側の都合に合わせて、品種改良が行われている。それは、自然で生きるという面では改良どころかほとんどが改悪でしかないはずだが、とにかく人間側の都合でそのようなことが行われてきたし行われおり、我々はその恩恵を受けて生活している。
 したがって、ペット動物も人の都合に合わせて、ようするに飼いやすいように改良するのは当然のように錯覚する人もいて不思議はない。わけても、特定の種類の魅力に虜になるような経験が無ければ、そのような考え方も有り得るだろう。しかし、それは動物の飼育とは、その種の形を変えないことを前提としたもの、言いかえれば家畜化を拒否することによって成立することを、根本的に理解していないことを示すだけとも言え、ただの素人ならまだしも、お門違いの浅知恵をひけらかすような人は、ペットを扱う専門家としての資質を問われることにもなる。
 もちろん、サモエドにしても、人間の役に立つ使役動物として進化しており、それは家畜の改良とも言えるだろう。しかし、彼らが特定の使役から離れ、愛玩動物=ペットと見なされた途端に、話は変わっていることに気づかねばならない。どう変わるのか?品種の改変はできなくなるのである。それぞれの犬種にはそれぞれのスタンダード(標準型)が設定され、その標準型の範囲でなければ正しいサモエド、ではなくなってしまう。例えばジャパンケンネルクラブによれば、大きさや毛色ばかりか性格もフォーミュラ(規定)されていて(品評会の選考基準はより細々と規定されている)、それから逸脱すれば、「サモエドじゃないんじゃね?」になってしまう。
 つまり、その品種の特性を理解し、それをありのままに受け入れて、一緒に生活するのが飼育の基本で、自分に合った犬種を選ばず、その特徴を消すような改良を望むのは、おかしな考え方とされるわけである。サモエドの良いところも悪いところもありのまま受け入れなければいけないのに、毛が抜けなくなると良いとか、もう少し小さい方が良いとか、もう少し警戒心があった方が良いんじゃね、などと言うのは、品種について理解せずに飼育しているだけと見なされるわけだ。

 ありのまま、と言うのは、小鳥の飼育方法にも及ぶが、現代ではさらに進んで家畜にさえ及ぶようになってきている。例えば鶏卵の生産のため、ニワトリは狭いケージで飼われているが、それは不自然とされ「平飼い」が動物福祉(アニマルウェルフェア)の考え方から推奨されるようになっている。その動物福祉の考え方を喧伝する国際獣疫事務局(WOAH)は、動物(感受性を持つ生き物)が快適な生活を送るための指標として、5つの自由を掲げている。すなわち「飢え、渇き及び栄養不良からの自由。恐怖及び苦悩からの自由。不快からの自由(快適な環境)。苦痛、傷害及び疾病からの自由。正常な行動様式を発現する自由」である(もちろん検索したらそう書いてあっただけで、私はこれを暗唱できないどころか懐疑的だ)。正常な行動様式を抑えつけて飢えさせたら、ペットを家畜と見なしても、問題視されてしまう行為だ。
 さて、使役動物としてのくびき(軛)を離れペット動物になって、あるがままを受け入れて飼育しなければならない、と言う方向性に進む現在にあって、ペットを昔の家畜と同一視して、起きている時は何でもついばんで食べようとする生き物に決まった時間の給餌を強制するなど、およそ虐待にしかならないことにお気づきになっただろうか?「飢え」させても、家畜化すれば当然さ、などと、家畜が長年の育種で野生とは程遠いものにしてしまった動物であることも、ペット動物は使役動物でなくなり人為的改変を受けないことでペットとして成立し得ることも、その考えを進めれば、大型インコの飼育など、繁殖も出来ない不自由極まりない環境で飼い殺しにしているだけ、という事実を突きつけられてしまっていることすら、何の危機感も覚えずのほほーんと生きている素人でなければ許されないのが今現在だ。ましてや、使役動物ですらなかった飼鳥に対して、好き勝手に性質を変え家畜化しようなどとするのは、およそ異端な思想と言わねばならない。

 ありのままの野生を手元に置きたいので野鳥をカゴに閉じ込める。飼育しやすいように家畜化する。いったい、どちらが愛玩として「まとも」な発想と言えるだろうか?人工繁殖で生まれた子の命が代々繋がれて、野生を垣間見せてくれるから、文鳥は素晴らしいのである。ありのままを受け入れられないような人は・・・、ぬいぐるみを愛でるのも、立派な趣味かと思う。

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