
伊藤美代子さんのご著書でがんばってお勉強しているお母さんのお話を伺って、文鳥の日を思い出した。10月24日を「文鳥ライター」伊藤美代子さんが文鳥の日として制定したのは、2005年のことである。手(て→テン10)に(2)4(し)あわせ、の語呂合わせだったはずで、10月末にはヒナがペットショップで多く売られているから、という理由付けでもあった。
私は、手に幸せを呼ぶ天使だ、と思っており、文鳥は手乗りにするのが当たり前で、飼い主とラブラブの2羽(実際は一人と一羽だが文鳥の方は区別していない)の世界に入るのが、ごく真っ当な姿だとも信じているので、この記念日の理由付けに対して違和感はなかったが、それなら手乗り文鳥の日にすべきだったと思っていた。
なぜなら、店に並ぶヒナは、繁殖農家や繁殖家が手乗りではない文鳥を産ませて育てて送り込んだ結果であり、つまりは、その時期はエンドユーザーのために親鳥やその飼養をする者は、忙しいのである(私は毎年、気づくと過ぎている)。また、そもそも、文鳥は観賞用に飼育されるのが本来の姿でもあり、手を見て逃げるのが当たり前の存在に「手に幸せ」は似つかわしくないだろうとも思う。
つまり、伊藤さんの感覚は、一から十までべた慣れ手乗り文鳥の飼い主のものであって、文鳥飼育の全体を代表しえない。もちろん、それは悪いわけではないのだが、一本一本の樹木を愛でるのと、森全体を愛するのは、少々違った話かと思う。
では、文鳥の日は何月何日がふさわしかったのか?私にはわからないので、昔も今も黙っている。しかし、なぜ、弥富に文鳥飼育を持ち込み、弥富系の白文鳥が繫栄する土台を築いた大島八重に関連した日にちの推奨がなかったのか、不思議に思ってはいた。オマエが言えば良かったではないか?しかし、私は弥富系より江戸系を尊重すべきだと2005年以前から思っていて、そもそも農家による大規模生産など無くなって当然なので、弥富を持ち上げる熱量がなかった(百姓が副業に農畜産品として生産していただけで、良いも悪いもない)。
第一、弥富の文鳥生産の歴史にこだわっていた人も多くいて、弥富に足しげく通ってもいたようなので、お寺の過去帳なりを調べれば、命日を特定するのは難しくなかったはずで、何をしていたのかな、とは思う(歴史畑出身だからである。そういったことをしていない人が寺へ行ってちょいとお布施をして過去帳を調べてもらうなどと言う発想がないのは当たり前だとは思っている)。以前、「やなぎす」さんがご紹介されていた資料に、昭和40年代だったか「白文鳥発祥の地」の石碑を建立する際の話として、文鳥出荷組合の人が、位牌で亡くなった年を確認したといった類の話があったかと思う。江戸系だろうと何だろうと、すでに100代以上代を重ね、大島八重の文鳥をまったく先祖に持たない文鳥など、日本にはおそらくいないだろうから、八重の遺徳を思い出せる日があっても良かったのではなかろうか(私が言うとバカにしているように聞こえるかと思うが、百姓は百姓である。私の祖先、曾祖父あたりまでいけば当然に百姓だったが、普通、百姓は野良仕事に忙しく、文鳥の歴史やら遺伝やらを考える余裕はない。いにしえの繁殖場の実態は畜産全書なり昔の飼鳥愛好誌を見ればわかるので、それ以上期待をしないことにしている。
※ なお、大島八重の存在自体があやふやとの見解もあるが、江戸時代末期に武家屋敷で女中奉公→趣味と実益を兼ねて飼育されていた文鳥の世話を担当して主人一家に気に入られる→維新の争乱期になってリストラされる立場になるが、主人の縁故をたよって名主階級の農家に縁づき、文鳥をともなって弥富に定住する→周辺の縁類などの農家に文鳥生産を広める→その中から弥富系白文鳥が生まれ、すでに江戸系が海外への輸出品になっている中で、好評を得る。といった流れは、とても自然に思えるし、八重さんという人が文鳥が好きであり、また主人の形見的に大事にしていたのではないかとも想像している。そのような類推を基に、ヒストリーはストーリーでないとつまらないと思っている私は、「八重女」と表記されるのは「やえじょ」と主人一家から呼ばれていたのではないかと類推までするので、しっかり者で義理堅く分け隔てなく弥富の文鳥生産の礎を築いた「八重さんは良い人」イメージを強めることにもなっている。もちろん村社会なので、本家分家の力関係があり、それが戦争や天災で移り変わりもするが、あやふやでも稚拙でも(ろくに推敲していない文章を横書きで彫ってしまう・・・)碑文に名を刻んだ気持ちは尊重して良いだろう。
そういったことを少し考えて、「手乗り文鳥の日」としておいてくれたら、自分で育てて手のひら天使にしましょうよ!の私も乗りやすかった、とは思っている。
