シン・野生に学ぶ

この子たちの1割だけ・・・

  (後日推敲)

 伊藤美代子さんが2023年に文鳥の飼育本を出しているのに、今頃気づいた。買う気はないのだが、見本ページで野生のブンチョウについての記事に生まれたヒナは半数程度が成鳥まで育ち、飼育下とは大きく異なり2歳あたりが寿命となります」とあるので批判しておく。
 この話が正しければ、ヒナ6羽×年2回繁殖÷2=1年後の生存数2羽になる。細かな前提条件もなく2歳で死んでしまうとされているので、2年目の繁殖もあったと見なす他ないのでヒナの数は2倍、つまりこのペアは生涯で12羽の繁殖可能になる子孫を残すことになる。ペア2羽だったものが、たった2年で6倍に増えるわけだ。これが事実なら現地は文鳥であふれて大騒ぎだろう。
 年2回ではなく1回ではないか?それにしても3倍に増えてしまう。さらに、年に3回でも4回でも繁殖している可能性もある。そもそも、文鳥は現地の稲作文化に寄生する存在のはずだが、かの地の稲作は、日本のように秋にのみ収穫するものではなく、三期作なのである。つまり、同じ田んぼで4か月に1回は収穫期だ。しかも広域で秋の収穫を目指して一斉に稲作を始める理由はないので、一年中どこかしらで田植えをしたり収穫したりしているものと思われる。つまり、穀物は年中豊富、昆虫が冬ごもりすることもない常夏の熱帯では、年中いつでも繁殖のチャンスがあるはずだ(雨季と乾季で違うとの話もあるが、サバンナのような極端なものではないものと判断)。
 
 伊藤さんのように素直でない私は、誰に言われたことでも矛盾が無いか自分で検討する。それが、教科書を信じ先生の話に従うような受け身の学問から離れねばならない大学での「修行」で唯一有意義な習慣だと信じている。従って、自分の発言も疑われた際に論証できるように準備しておくのも当然で、私が年に2回繁殖していると、現地で双眼鏡片手にブンチョウたち追いかけまわすことなしに想定するには理由がある。成鳥まで生き延びるヒナはおよそ1割で、3、4年生き延びて繁殖する可能性もある一方で早々に死んでしまうこともあるので、とりあえず平均2年繁殖するとすれば、年12羽×2で24羽のヒナをペアが生み育て、その十分の一が親鳥になるなら、2.4羽で、親2羽が残す数としては、まず妥当といった計算だ(つじつまが合っている)。
 それは机上の空論と思われるかもしれないが、ご安心いただきたい。ただの公開日記でも文字で残す以上は日常会話ではないので、当然、裏付けてくれるデータも準備している。例えば、以前、スズメのことを調べていた時に目にした、山階鳥研の中の人の見解だ。少々長いが何の断りも遠慮もなく引用させてもらおう(学問の世界では引用してもらうことが評価である。引用してもらうために論文を書いたり発言する。引用されたくなければ書かなければ良いし掲載しなければ良いのだ。壁に向かってぶつぶつ言っていた方がよほど自分の脳内での思索は深まるだろう)。

「ヨーロッパでシジュウカラについて、足環で個体識別した調査データをもとに推定された数字では、ある年に巣立ったヒナが翌年まで生き残る率は約14パーセントだそうです(「鳥類の生活」紀伊國屋書店)。いっぽう、いったん大人になって(注1)繁殖期を迎えた鳥が翌年の繁殖期まで生き残る率は約48パーセントとはね上がります。スズメについても体の大きさがまずまず似たようなものですから、おおむね似たような生存率になると思います」

 14パーセントだ。もちろんこれが真っ当な学問としての研究ならその出典を確かめ調査方法を批判しなければ信じるに足らないが、ここは個人の公開日記であるブログなので、そういった学問的には本来必須の作業は省いて、山階鳥研の中の人を信じて具体的に考えたい。

 例えば20ペア(40羽)いて、みんな1年に12羽のヒナを孵すとすれば、1年目で240羽生まれる。その最初の20ペアは2年目には10ペアに半減するので、2年目は120羽のヒナが生まれる。合わせれば360羽だが、このうち1年生存して繁殖できる数は14%なので、約50羽、親40羽が子50羽の繁殖年齢の個体を残すことになる。これでも20%割増しとなるが、ざっくりと考えるなら許容範囲だろう。したがって、文鳥の繁殖回数は年に2回程度ではないか、と文系でも推測できる。
 さらに1年で半減が続くのなら、3年目は60羽、4年目は30羽となるが、240+120+60+30=ヒナ450羽で、生存率は10パーセントとすれば、親40羽は45羽の繁殖可能な子を残すことになる。
 伊藤さんの場合は、成鳥になってから年々半数になるという話を、ヒナが成長するまでの最初の1年の話と勘違いしたのかもしれないが、理屈で数字を操るだけでも、「生まれたヒナは半数程度が成鳥まで育ち」は有り得ない。現実の野生環境はよりシビアで、生存率約1割の過酷なサバイバルを経なければ、子孫を残せないと理解すべきなのである。
 「半分しかお父さんお母さんになれないのよ!」、どころではない。1割しか生き残れないのである。したがって、私は野生環境と飼育環境など比べ物になるわけがない、という大前提を持ってもふしぎではあるまい。

 なぜ、「野生から学ぶ」の話のはずが、野生におけるヒナの生存率の話をしているのか?「1年で半分死んでしまう」と、「生き残れるのは1割だけ」では、基本認識が異なってしまうと思っているので、必要と思っているのである。飼育しているヒナはほとんどみんな育つのに、野生では半分になるから、野生に学ぶことなどない、などと考えるのではないかと疑っているのだ。私に言わせれば、ほとんど育つのが前提の飼育と、ほとんどが死ぬのが前提の野生では、最初から比較にならない。比較にならないものを比較するのはそもそも無駄で意味がない。
 生命は子孫を残すべく生まれていて、その目的を達成するために生きている。野生における生存率1割の過酷なサバイバルは、強く丈夫で賢く生きられる個体を選別してそのDNAを残すためのプロセスのはずだが、手乗り文鳥には必要のないプロセスであり、そこから学べるのは、安穏な生活環境があれば飼育下では死なないのが当たり前、という当たり前な事実でしかない。
 もしかしたら、野生では1割しか生き残れない事実から、野生での食べ物などに問題があるのではないか、さらには、穀物よりペレットの方が体に良いのではないか、などと妄想を膨らませるような人もいるかもしれない。しかし、食べ物が悪いから1割しか生きられないわけではない。もちろん餓死する者もいるだろうが、空腹で動きが鈍くなっただけでも外敵に捕食され、翼の羽ばたきが弱くなれば風に吹き飛ばされて体を打ち付け死ぬのが野生だ。強く運の良い個体だけが生き残る環境など、飼育下で真似するバカはいないのに、いったい何を比べられると思っているのだろうか?野生は比較の対象になどならないと、まず、わきまえるべきかと思う。
 野生から学ぶべきは、養生法でも延命法でもない。その生物が生息する環境に合わせて進化を遂げ、その環境に適応した身体構造や行動様式や食性を獲得して、繁殖できるまで生き延びる能力を得て、自分のDNAを残すのに成功しているその生き物の在り方を学んで、その機能を十全に生かして、野生では有り得ない「老後」「余生」を、活き活きと過ごしてもらう飼育環境をつくれるか、だ。
 「野生に学ぶとはそのような自然への適応を知ることでもある」と、数か月前の私は断じた(こちら)。我ながら良いこと言う(書いた途端に忘れている)。
自然への適応は進化によって得られて、その生き物の活動の基礎をなしている。これもたびたびながら、パンダは栄養などほとんどない笹を食べて生きて子孫が残せるように進化しているし、コアラは毒物と言えるユーカリの葉をしっかり解毒するシステムを進化の過程で確立させて繫栄していた。さらに、日本ライチョウは高山性植物を利用することで、生存の身体メカニズムを維持していて、それが理解できた近年になって、ようやく飼育が可能になっている。もし気の効いた愚か者が「栄養たっぷりの団子を作ったのでこれを食べてね」などと人工的なエサを用意しても、パンダもコアラもライチョウも食べてくれないし、食べてもまともに生きることはできない。特殊な栄養摂取の仕方を進化によって得ているので、特定の食べ物以外では生きられない体になっているのである。
 野生から学ばずに生き物の飼育など出来ない。昔、アイドルの某が写真集だか何かの撮影中にカメを見つけ、こんなところではかわいそう、と、陸地で発見したカメを浜辺に持っていって放していた。足で歩くリクガメである。気の毒に竜宮城には行けずにあの世へとてくてく歩ことになっただろう。もちろん、彼女は悪気はなくバカなだけだが、「野生に学ぶ」気持ちを失った人が、彼女を笑えるだろうか?臨床の獣医さんは飼育しているわけではないが、動物園で飼育している獣医さんは、ただのエサ係ではなく飼育のプロだ。彼らは、日々観察し工夫し、野生的な面、つまり、その生き物が生き物として繁殖のために活き活きとして生きている姿を引き出すべく、つまりエンリッチメントを実現させるべく努力している。我々一般の飼育者にしても、日々に観察し何を考えているのかわかろうと努力し、自分の子が活き活きと元気に暮らせるように心がけ、結局のところエンリッチメントを希求している。
 生き物を見て感じて知ろうとする努力は、野生から学ぶことの基礎だ。そして、気づくべきだろう。その野生と言うのは、観察眼のない若造が体力だけでジャングルに分け入ってチンパンジーを見て帰るような大掛かりなものに限らない(あの京大の人たち、汚職が疑われる飼育施設をつくるくらいなら、12畳ほどの室内で文鳥でも飼って観察眼を養ってから現地で苦労すれば良いのに、と何も知らない素人の傍目では思ってしまう)。人間にしろ何にしろ、生きて死ぬ生き物に野生を内在しないものなどないことを。人もさまざまな生理現象にとらわれて生きており、それは野生で進化した結果だ。人であれ、飼育下の生き物であれ、野生での進化の結果として今現在ある存在に相違ないのである。しかも文鳥は、数百年も人工繁殖されながら、昔、日本でもたびたび野生化しており、野生の能力を秘めている。
 飼わなければ、観察しなければ、学べないことが大半だ。野生は、長生きさせるための参考にならない?笑わせるな。長生き以前に、その生き物の野生の在り様がわからなければ、生き物は飼えない。死ぬのである。幸運にして人が与えるエサに適応し、三食昼寝付きの身分になっても、生きながらに死ぬ。檻の中で意味もなく右に左にうろつくライオンやら、観客に向かってフンを投げつけるチンパンジーやらのように、精神的に壊れてしまうのである。それが現実だ。病気やケガや長生きさせるか以前に、精神的肉体的に、それぞれの環境に適するべく進化した「野生」から学ぶ努力(エンリッチメントの希求)、それは、診察台で病気やけがの局面でのみ接する人たちには必須な努力ではないが、飼い主には求められる努力なのである(手乗り文鳥の場合は、よく見て遊んでればよいのです。嫌でも以上に気づくようになります)。

 つまり、それぞれの立場の違いを認識して、有り得ない全能の神、何もかも知っているような態度の人に頼らず、自分で見て感じて理解する努力、それが「野生に学ぶ」の正体だと私は思う。家で、目の前の子から学んでいただきたい。

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