
永福寺、って駅があったな。あれは「えいふくじ」か、鎌倉の方は「ようふくじ」。「造立責任者は造立奉行工藤行政、作事奉行・作所別当八田知家」とある。どちらも三谷幸喜さんの大河でご活躍だったでしょう?何かと出てくる頼れる筋肉マンの八田さんと、北条義時の後妻伊賀氏の祖父二階堂さん。二階堂というのは、永福寺が二階外見構造の大伽藍だったのが印象的なので、一帯の地名になったことによる。つまり、あのおじさんの屋敷があの辺にあったということだ。
三谷さんの大河も、昔の『草燃える』も、頼朝が政治的な必要から弟の義経を追い詰めて死なせてしまい、慟哭する姿が描かれている。しかし、それはどうかな、ポーズとしてなら「有り」だが、だまされたらいけないよ。相手は稀代の政治家源頼朝様なのだ。
そもそも、義経は東北へ逃げた、と言うより、追い込まれた、と見なすべきだと私は信じている。捕まえようと思えば簡単に捕まえられたはずで(彼は著名人だ。隠れようがない)、わざわざ北条時政を派遣して、間違っても捕まえないようにしていたように私には見える。
平泉を総がかりで攻める際など、わざわざ、自分の祖先、頼朝の祖父為義の祖父が八幡太郎義家なのでその親父である頼義の故事に合わせて日程調整までしている(頼朝は自分を頼義に重ねていた節がある。頼義は北条氏の祖先の娘を妻にしていた可能性もあるので、そのあたりで重ね合わせて伝承を創り出しているのかもしれない)。奥州藤原氏の武力など、まったく怖れていない。
頼朝の手のひらでいいように使われた義経は気の毒だった、かもしれない。となれば、一発逆転のチャンスを与えたい。・・・でも、三谷さん発案の海からは無理。造船技術も航海術も少し考えれば実現不可能なのは明々白々なのである。
・・・そこで、私ならどうする?・・・いや、私だったら義経同様の末路以外ないのだが、義経が義経らしく鎌倉を攻めるとするなら・・・。東北の防御線を維持するなり、拠点にこもってゲリラ戦を仕掛けるなどして時間を稼がせつつ、その間に騎馬隊だけで北陸から信濃経由で勢力を膨らませ、甲斐源氏も味方にしたうえで関東に打って出るだろう。足固めなどせず「いけいけゴーゴー!」と義経らしく突っ込んでいけば、おそらく無人の荒野だ。一気に鎌倉まで攻め込んであっという間に完勝、できるんじゃないか?
それにしても、チバちゃん。うちに残っている娘は美女ぞろい。宿泊に来た娘も美女。つまり子供はみんな美女。・・・彼女の外見も男勝りのDNAはどこへ行ってしまうのだろうか。
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