
一時、小鳥の気持ちがわかる、とか、小鳥のココロ、とか鬱陶しいくらいで、なぜ自分の子供同然の小鳥の気持ちを、マニュアルやら他人の知識で理解できるなどと思えるのか、私には不思議であった。特に、鳥の獣医さんが小鳥の気持ちを理解しよう!などと言っているのを見聞きすると、医療従事者とは、知性で病状を把握しなければならない職種なのに、なぜ、普通に知性の低い飼い主よりも気持ちがわかっているなどと思えるのか、鈍感、感性なしは、人間の医者にも多いタイプで、職業病ではないかと思えるくらいなのに、自覚がないから、やはり鈍感なのだろうと思う。
飼わないでわかるはずがない。個性を認めえているなら、その個を理解するためには、マニュアルでは不可能なことくらいわからないのだろうか?その子と日々に接している飼い主以外に、気持ちなど理解できるわけが無いだろうに。
こんなしぐさや鳴き声はこういう意味、って書いてある・・・。そのような断片情報の寄せ集めを読む暇があるなら、自分の小鳥をよく観察してもらいたい。目を見る動きを見る、そしてそれがどのような意味を持つか、相手の身になって一所懸命考えてもらいたい。それを続けるのが、『感性を磨く』ことになり、小鳥の気持ちを理解することにつながるのだと、思う。その子の行動を見て感じて理解しなければいけないのに、同じ種類の生き物を診察台でしか知らないような人たちに、何ができるだろうか?
飼育をしていない獣医さんなどは、およそ気持ちがわからないで済む職種だと、まず自覚しない限り、永久に気持ちなどわからないだろう。なぜか?知識に当てはめ問題点を探しそれに知識で対応するのが宿命だからである。つまり、彼らの職種に感性は必要ないので、磨かれない感性は鈍磨していて当然で、その鈍磨に気づかない頓馬が、動物の気持ちを理解するなど、ただの初心者の飼い主以上に難しいのである。
「鈍い初心者の私はどうしたら良いでしょう?」、甘い!鈍いなら鈍いと自覚して頑張って読み取る努力を重ねるのみだ。知識でごまかせるとは思わない方が良い。考える前に感じろ、感じてから考えるのだ。おかしいな、とか、おもしろいな、と思うのが感性で、そう思ったのならすでに鈍くない。
この場合、「鈍い」の本質は、見ていない、感じていない、である。見ないで感じ取らないで、相手の気持ちなどわかるはずもない。
と、最近、某所を見て思ったのだが、感性感性と言うと、直感であらぬ方向に突っ走る人もいるから、困るんだよな。
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