
他人に共感しその行動を褒めたたえるのは、人として生きる上で必要なことであり、それが出来るのは美徳と言える。人が話していると、絶妙なタイミングで「そうそう」「そのとおり!」と相槌を入れてくれる人がいれば、実にありがたい理解者と思えるはずである。が、それは日常での付き合いでの話だ。うわべの相槌ほど無責任で人を惑わせるものはない。
いかに考え方が似通っていて「あなたは私ではないか?」と思えても、自他は異なる。必ずや異質なところがあり、それといかに向き合うかで理解のほどは変わってくる。この人とは意見には共感することが多いが、この意見には賛同できない・・・、なぜそのような結論になったのか?・・・そういうことか?それならそうした意見を持つ気持ちもわかる、といった自分の中で納得できる思考プロセスを経るなら、違和感を乗り越え真の共感となるだろう。
無責任に従うな、すぐに全面肯定するな、疑って考えて乗り越えてこその共感だ、と私は信じている。しかし、そのような結論は、ごくありふれたものだろう。私にしても、考えてみれば、高校生の時に、東京外語大を出て高野山のお坊さんになってなぜか英語の講師をしていた先生が、「すぐに返答しないで、ちょっと待ってもらって考えなさい」といったことを繰り返し教えてくれたのに従っている面もある。おそらく感性での共感に溺れないようにという意味合いではなかったか、と今にして思うのである。
無責任な賞賛がくせになれば、人は「ウケねらい」を始める。専門に深めるべき課題を忘れて、本来の道に外れたどうでも良い内容でも賞賛を得るためなら、惜しげもなく時間を費消する。専門で現場にある者に余計なことをする時間などないのに、優先順位を間違えてしまう。善人ほど、安易に共感を表に出すが、無責任な共感は、周囲でけしかけて犯罪行為を誘発する「従犯」行為にもなる危険行為でもあるのを知らない。無邪気に過ぎる。それは、昨今のユーチューバーなる軽薄な者どもも踊らせる視聴者のごとしだ。
いかに共感からの賞賛が甘美でも、違和感からの指摘批判こそが、自己研鑽の糧である。それが理解できない人は、気をつけた方が良いだろう。共感に溺れるなかれ。
さて、↑画像だが、ヨーロッパ(フランスだったかと)のお土産としてお客様からもらったものを使って、骨折治療などの主義を研鑽するとしたら・・・、と試してみたところだ。何十年も小動物ばかり診察した挙句が、ただの患者飼い主から「へたくそ」「不器用」などと思われないためには・・・、模型でも使って手技を磨かなくてはなるまい・・・。すでにして、脚にテープを巻く程度は出来る私でも、あのギプス技を真似るには、一日一時間だけ模型と付き合っても、早くて数か月かかるだろう。それは、すでに現場で働いている者には時間がかかりすぎる。何しろ彼(院長先生)は、死にかけたハムスターを温めて蘇生しようと頑張らなければならない立場だ(本当ですよ?待合の横ではそのような事態になっていた)。それが現実なので、私はへたであることに共感する。小鳥用の手技の研鑽に時間を使えないのである。
もちろん違和感は大いにある。ハムスターは短命だ。せいぜい寿命は3年だろう。それが天寿を全うし冷たくなろうとしていれば、私なら安らかに旅立てるように、飼い主と話をするだろう。
「それが彼の一生で、安らかに見送れるのは飼い主があってこそですよ」
口先一つで足りる。看護師さんはいらない。もちろん共感しなくても良い他人の立場の私は、長生きさせたいなら長生きする動物を飼えば良いのだ、と思っている。違和感である。
そう、違和感。↓某ペットショップのブログに、白羽がすくない子ばかりを、卸売会社から厳選して連れて来た、と自慢げに書かれているのに違和感を感じていて、ごま塩が生まれるはずなのに濃い目のヒナばかりだったのに違和感を覚え、偽装、を疑って、売れ残ったキョンキョンとピョンピョンの成長を固唾を飲んで見守っていたら、ものの見事にごま塩ちゃんに変身した!違和感あればこそわかることだ。
おかげで、別に江戸系を再現するためにごま塩は貴重だ、と言わなくても、紛れてわからないので絶滅の可能性は低い、と思えるようになった。ありがたいことである(いろいろ嫌味だ)。
生き物を飼うにも、共感は重要だ。しかし、観察とは違和感を見出すための行為だ。違和感をしっかり受け止めて共感を得たいものだと思う。


