必要なのは緩和ケア

誰かの生まれ変わり?・・・イトはんはこんなことしなかったはずだけど・・・

 無病息災がベスト、寿命の短いペットに健康診断は無意味、老いて病院へ行っても苦しみを増すだけ、などと飼い主たちが共通認識を持ってしまったら、ペット臨床のお医者さんは、存在意義を失うのではないか、と思われるかもしれない。しかし、そうではあるまい。彼らの中に人間並みに完治させるのを正義と勘違いしている人が多くいて、飼い主との間でギャップが生じるだけだと思う。もし、あくまでも痛みを和らげることを優先する緩和ケアを意識していれば、飼い主も納得、患者のペットも痛みを減らしてもらえるので、お医者さん嫌いにならないかもしれない。悲しい思いを緩和された飼い主は、次を飼育することも考えられ、つまりは患者は減らないだろう・・・たぶん。
 例えば、昨年、愛犬を入院中に亡くされて逆上してしまったデビィ夫人が話題になった(記事)。デビィさんの留守中に愛犬を預かっていた人も、体調不良に驚いて、助けたい一心で動物病院に連れて行ったであろうし、そこのお医者さんも助けたい一心で救命処置をしただけで、責められることは無い。が、それは、つまり、考え方がズレていたとも言える。救命というのは、カンフルだ、心臓マッサージだ、気管挿管だ、となんでもござれの修羅場になるわけで、家族が見ていればいじめているようにしか見えないようなものかと思う。そして、助からないなら安らかに死なせてほしいと思うのも不思議はない。特に、余命が短い老いた者においては、そうした思いになる人が圧倒的ではなかろうか。と考えていたなら、必死に生かす努力などせず、緩和ケアをしたのではなかろうか?ましてや、いろいろ頑張った挙句に「このカネ儲けー!」などと言われずに済んだはずだ。
 「お歳でしたので、苦しみを和らげるように治療いたしました。ご冥福をお祈りします」と言われて、ベットで安らかに永眠しているのを見れば、デビィさんも納得できたはずである。
 多くのペットに比べれば、はるかに長命な人間の医療技術を、そのままペットに導入するなら、年齢による必要性についても、しっかり認識すべきかと思う。日本は、老人に対して一日も長い延命ばかりを追求し、胃漏だ何だと寝たきり状態で生きながらえるようにしてしまっているが、欧米などはそのようなことはしない(2012年記事『欧米にはなぜ、寝たきり老人がいないのか』)。個人の生き方を大事にするので、苦しみ長らえるだけの方法は選択肢にないのである。人間の医療における日本の延命絶対主義は、早晩、否定されるべきものと私は思っている(費用負担が多く患者本人の生活の質向上につながらない)。実際に、緩和ケアの必要性も需要も高まっている。そしてペットには保険がないので医療費は高額になり、寿命は短いので、高度な医療を施しても何十年も長生きできるわけではない、という現実がある。にもかかわらず、日本の人間医療の悪弊とも言える部分をそのまま絶対視してどうすると言うのだろう?延命ではなく緩和、を意識してもらいたいものだ(↓一番下の画像の手前でボクジュが背眠している)。

※ 欧米の場合、この緩和、痛みからの自由を絶対視して動物一般に適用し、例えば魚介の活け造りを残虐行為と見なすまでに、一部では、先鋭化している。そこまで先鋭的でなくても、ニワトリの平飼い奨励は現実のものとなっており、犬猫の繁殖飼育規制は厳しいものになってきている。もちろん海産物天国の列島に住むモンゴロイドの私は、肉食のコーカソイドの末裔のヨーロピアンが文化人ぶって笑わせると思っている(あの人たち、きれいな海水に洗われた新鮮な魚介類と獣肉解体の区別がつかない)。経済動物を食べる立場なので、倫理的に人と分けて考えねばならず、飼育繁殖についての「適正」はケースバイケースで、細かな規定は逆に動物の個の自由を妨げる結果にもなりかねないとも思う。
 明らかに不適切な環境での繁殖を行う業者の話題は、時折あるが、あのような環境での継続繁殖は難しいはずで、放っておいても破綻していたのではなかろうか。つまり、飼育環境の問題で、繁殖の問題ではないのに、履き違えていい加減な型にはめてしまっている面があるかと思っている。

 で、愛するペットが亡くなった際、日本人は往々にして生まれ変わりを求める。仏教的な転生思想が変化したものだと思えるが、死んだ子の生まれ変わりを探すのである。
 もちろん私は生まれ変わりなど信じない。もしかしたら、魂というものが心臓に宿っていて、それが別の生き物に移動することは、無いとは言えないが、脳みそで考え記憶した内容が持ち込まれることは無いので、考える脳みその世界では、ほとんど無意味だと思うのである。
 で、↓だ。昨夜、テーブルから離れず、目の前のおとなの文鳥をちょっとつついては反応をうかがっていたタイコちゃんは、ついに良い感触の相棒を見つけた!・・・なんだ、コチャではないか。コチャの方は喜んでまとわりついている。これは恋愛関係に発展するかもしれない・・・、タイコがオスならご破算だが。
 コチャの母アカは、タイコの祖父チョロの姉なので、コチャから見れば従妹の子か・・・。より遠縁で美男のラスを婿候補に考えていたが、まあ、コチャでもいいか・・・。・・・・・・そう言えば、タイコの賢い雰囲気は祖先のイトを思い起こさせるし、イトはんがヒナの時から愛した相手は、ヒナの時に奇妙顔だったキミョーで、コチャにかなり似ている。因縁深し。・・・とりあえず有りということにしておこう。生まれ変わりとするなら、よくできたストーリーになるかもしれない。
 このように、まったく信じていない生まれ変わりを姿かたちや動作しぐさの類似性から、私は楽しんでしまう。一方、もし、転生を信じて生まれ変わりを探すなら、見た目は一切無視しなければならない。なぜなら、転生したとして前世を語る人の例はかなりあっても、性別や姿形に類似性などないからである。同じか似ているならわかりやすいのだが、そうではないので、そういうものではないらしい、とする他ないのである(ダライ=ラマの転生にしても、姿かたちの類似性では判断されない)。
 縁がある子を生まれ変わりと信じる。それは一種の精神的な緩和ケアになる。あの子と似てない、似てないけどここだけは似てる、全然違うようだけど、あの子にもこういった面があったかもしれない・・・。などと、思い出して重ね合わせていると、次第次第に生まれ変わりにしか見えなくなるのではなかろうか。生まれ変わりがいるのではなく、生まれ変わりになっていくのだと、私は思うのである。

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