
昨夜、目の前で突然ボレー粉をむさぼり始めたサチィを見ていて、文鳥およびペット飼育される小鳥は、今現在、「家禽」のカテゴリーなのだろうか、と、無関係そうな疑問が頭をよぎった。
ウィキペディアによれば、最近はこのような定義のようだ。
「家禽とは、その肉・卵・羽毛などを利用するために飼育する鳥の総称。または野生の鳥を人間の生活に役立てるために品種改良を施し飼育しているものをいう。また、ペットとしての鳥を家禽として扱う場合がある」
もちろん、漢字の「禽」とは捕まった鳥の意味なので、飼育されている鳥は本来すべて「禽」に相違ない。実際、昔から鳥小屋は禽舎であり、小鳥は小禽とも呼ばれており、「ペットとしての鳥を家禽として扱う」のが当たり前だったかと思う。しかしながら、禽獣(きんじゅう)という言葉があるように、鳥類が「禽」なら哺乳類は「獣」である。では、ペットの犬猫を今現在ケダモノ(獣)と認識している飼い主がいるであろうか?まして、鳥類が「家禽」なら哺乳類は「家畜」である。自分の犬や猫を家畜と認識することはないだろう。つまり、ウィキペディアが述べる如く、現在は、ペットを家禽として扱うのは特例となりつつあると、見なせるだろう。
※人間とその他の生き物が共通で感染する病気、英語のカタカナ語では「ズーノーシス」は、昔、人獣共通感染症、人畜共通感染症と呼ばれていたが、現在は動物由来感染症と呼ばれることの方が多くなっている。「獣」「畜」は類義語扱いで、ネガティブなイメージが強いので変わってきたのではないかと、私は類推している。
愛玩動物と見なしてペット、伴侶動物としてコンパニオンアニマル・・・、そのように認識する前提で、動物愛護法などと言う法律があり、獣医さんは人間並みの治療をしようと努力している。例えば、「クロダ」と、売り物の黒いヒナにテキトーに名付けても、飼い主の氏に続いてクロダちゃんと、我が子の幼児同然に扱われるわけだ。
そこで不思議なのは、彼らの名称だ。なぜ獣医なのだ?ケダモノではなく家族同然のペットを治療する人の名称が、獣医であって良いはずがないだろう。家庭で家族並みに扱われ、保険がないので実費負担となるにもかかわらず、人間の何分の一しか生きてはくれないペット動物に、人間並みの高度な医療を試みようと、借金までするのが、獣医さんのお客さんである飼い主たちだ。ケダモノ扱いなどできないし、実際にしていないではないか。まして、鳥の専門医が獣医というのはおかしすぎる。それは「禽医」と呼ばれるも同然だ。
昔の鳥好きの心優しい獣医さんの中には、自然に死んでいくべき野鳥を無償の趣味で治す人もいたが、その趣味で身につけたスキルで飼鳥の診療をして動物病院を経営するような人もいた。もちろん、飼鳥の生命を救いその飼い主の要望に応え感謝されるのが、臨床医の使命のはずなので、野鳥など放っておくのが当たり前で、飼鳥と野鳥の区別がつかないような人は、良くも悪くも「禽医」にふさわしいかもしれない。しかし、そのような人は、現在では稀有で、むしろ、野鳥からの感染症を考えれば、多少残念だが、野鳥の院内持ち込みを禁じるのが良識と言えよう。つまり、禽獣への愛とペットへの愛は両立しがたいものになっている。
では、獣医も禽医もペットを治療する臨床医の呼称にふさわしくないとすれば、どうすれば良いのであろうか?・・・英語で獣医はVeterinarian(略してVet)、馬とかロバとかの面倒を見る人が語源らしいが、野生のケダモノといった意味合いは元々ない。となれば、いつの事かは知らないが、動物医療に「獣」の字を当てはめたのは、そもそも誤りだったのではなかろうか。動物医で良かったのである。少なくとも、ペット動物を扱う臨床の獣医さんは、公式な名称は置いて、ペット医とでも称するのが妥当だろう。
鳥専門は?1960年代に高橋達志郎は「小鳥のお医者」を自称し、ご著書の題名にもなっている。「小禽のお医者」ではない。江戸時代には犬医者も馬医者もいたのが日本という国だ。となれば、鳥医者を自称しても良いだろう。となれば「小鳥のお医者」だが、今風ではないので、バードドクター、略して「ばーどっく」はいかがであろうか。
「獣」とか「禽」とか「畜」は、動物を人間並みに扱う立場から見れば、いわば差別語となっている。獣医さんたちもそれを自覚しないと、一般のペット動物に対する考え方と乖離することにもなるかもしれない。
例えば、文鳥を含む小鳥の飼育に際して、食べる時間を朝昼晩などと決めるなど、人間の都合に合わせた飼育をすすめるような「ばーどっく」がいるようだが、その「ばーどっく」は、およそ小鳥の飼育を理解していない。なぜなら、飼育とはそもそも家畜化ではないからである。「人間の生活に役立てるために品種改良」した動物が家禽であり家畜だ。人の飼育環境に合わせてペット動物の本来の摂食行動を変えるなど、野生のケダモノを人間の都合で変えようとする「獣医」の発想と言わねばなるまい。
活き活きと動き回り鳴き交わし、その姿やしぐさや鳴き声で、生きる物の躍動を感じたいから、小鳥は飼育されてきた。それがため、野生に自由を謳歌しているものを無理やり捕まえカゴに閉じ込めるような乱行もあったのである。したがって、おとなしく飼いやすくといった変化は控えめで、文鳥についてはほぼそのような人為的変化のないまま、手のひら恐竜の野性味を残し、その野性を残しているからこそ愛され、また繁殖する能力も損なわれず、野生の文鳥を捕獲してワシントン条約に違反する必要なしでいられるとも言える。
文鳥は、低脂肪(≒低カロリー)な穀類を主食として、いつもいつも食べ続けるべく進化した生き物だ。決まった時間に餌をもらって生きられるように進化も人為淘汰もされてはいない。そのような生き物の生態を無視して、人の勝手気ままに摂食制限をするなど、有り得るはずがないだろう。
現在の飼育では、エンリッチメントが重視される。それは、動物園のライオンが檻の中で行ったり来たりを続けたり、チンパンジーが観客に糞を投げつけたり、栄養的には満たされていても、精神を病んで問題行動を起こし、繁殖意欲もなく、結局、野生動物を見世物にして飼い殺しにするだけだった反省から生まれた考え方だ。
野生でのあり方をしっかり認識して、食べ物の栄養だけでなく、野生での食べ方を把握し、それに類似の行動を出来るようにし、それを楽しく演出して、活き活きと動く動物の姿を観客とともに楽しむ方法を模索しているのが、現在の動物園である。その飼育員は、昔のエサ係と違い、場合によっては獣医の資格も持つ動物行動学の研究者だ。
文鳥の場合、飼育側に問題意識があったわけではないが、偶然にも、「原始時代」=科学的な因果関係など考えずに済ませていた時代の人間が整えた環境が野生での在り方と決定的な齟齬がなかった。おかげで、一生カゴの鳥でも野性味を残したまま、江戸時代から300年は飼育下で繁殖し子孫を残してくれたのである。せっかく、成立しているエンリッチメントを大切にするべきだろう。それは簡単だ。家禽として「人間の生活に役立てる」などと考えず、文鳥本来の生活を意識するだけのことで、基本はすでにあるのだから、飼い主が、非エンリッチメントな軽薄な知識に惑わされなければ良いだけである。
きれいごとを並べても、野生のあり方に学ばず、エンリッチメントを意識せず、「人間の生活に役立てるために」を優先するような人は、動物を禽獣と見なし改良できる家畜・家禽と無意識のうちに位置付けているのではなかろうか?それでは、その生き物の本質などわかるわけがないだろう?気持ちがわかるわけがないだろう?私はそう思うのである。
