
納涼アラピ
7月25日と言えば、引越し記念日ではないか。20数羽を升箱に入れて、ペットタクシーで多摩川と荒川を越えたのが、2年前か。案外、最近のことだ。せっかくの記念日に、夕飯の支度などゴメンなので、一度試してみようと思っていたファミリーレストラン『ガスト』の宅配に注文してみた。油淋鶏、なかなか美味しゅうございました。
文鳥たちは、昨日トウモロコシだったので、今日は特になし。ただ、明日は枝豆、日曜日にトウモロコシ、火曜に枝豆と、スペシャルウィークになる予定なので、文句あるまい。
さて、昨日の話題で、「そんなにセキセイもうるさくないのに!」と感じた人は少なくないはずである。しかし、文鳥専門の人間があえて言ってしまうと、その考えは間違っている。セキセイインコは、本来うるさい生き物で、うるさくなかったら、それは不自然なのである。
誤解は、セキセイインコを1羽かせいぜい2、3羽しか飼っていない場合に生じる。確かに、1羽の音量としては小さく、遠くの誰かに聞かせるような鳴き交わしをすることも少ないので、むしろ静かと言えよう。しかし、徹底的におしゃべりなのである。それは、彼らの祖先たちが、オーストラリアの荒涼とした大平原を、水や餌を求めて大群で移動する生活をし、降下していろいろおしゃべりしながら飲んだり食べたりねぐらの場所決めをすることに由来している。つまり、大集団の中で、多数の仲間たちとのコミュニケーション能力を必要とする生活を送るのが、セキセイインコという生き物であり、結果、その面の能力が進化し、飼育下でも、仲間が同居なり近くに複数いれば、何やらやかましく「ベチェ」くり合わねばいられず、それこそがストレスを溜めない生き方ともなるのである。
近くの仲間に聞こえれば良いので、セキセイインコのおしゃべりは、さほど大きな音量を必要としない。それは、文鳥のオスのさえずりが、横にいるメスに聴かせるためのものなので、音量はきわめて小さいのと同じことである。文鳥であっても、大きな声で鳴き交わすのは、警戒音を発して周囲の仲間に危険を知らせる時や、伴侶の一方を呼び寄せようとする時に限られ、その鳴き声も、昨日指摘したように、所詮は体の大きさに比例しており、同じ室内の目の前にいる飼い主が実感するほど、客観的には大きな音にならず、室内では壁やドアで遮られ、屋外では環境音に紛れてしまう。セキセイにあっては、大群衆で移動すること自体が、外敵への防御となっているので、個別に大きな声で警戒音を発する必要がない。
しかしながら、セキセイインコの生きがいとも言える「しゃべり声」は、大した音量でないことは文鳥の鳴き声と同じであっても、その音は異質で間断がないため、屋外でも意識されやすく、ようするに耳障りに感じられる特性を持っている。しかも、そのおしゃべりは、あくまでも自分の満足感を得るのが目的で、相手の返事など待たないどころか一緒に同じようにおしゃべりし合うため(おそらく、お互いにしゃべり合っても相手の声は聞き分けられるのだろう)、数が多ければ多いほどおしゃべり音は重なり合い、重畳として倍加し、普通に歩いていても、頭上はるかなマンションのベランダに居るセキセイインコ、おそらくは4、5羽のおしゃべりに気づいてしまうほどになってしまうのである。これは、学校の集会などで、周囲の友だちとヒソヒソ話するだけでも、あっちでもこっちでもそれがあれば、コウチョー先生の話は聞こえなくなるのと、同じ理屈なわけだ。
セキセイインコのおしゃべりとは、おしゃべりをすること自体がコミュニケーションとなっており、「会話」内容には意味がないと思える。相手の言っている内容など何でも良く、自分の話を聞いてくれて相手も同じように話してくれることに、親しみを覚えているのだ。もしかしたら、この断定にも異論があるかもしれないが、セキセイインコの中に、やたら長い昔話をはじめから最後まで覚えて語ってくれる芸達者がいるのを思い出せば、おしゃべりに内容などないことは明白となるだろう。あれこそセキセイおしゃべりコミュニケーションの結果に相違ないのだ。
自分がその声でそのおしゃべりをすると、仲間たち(おもに人間)が真剣に聞いて、相槌なり感嘆感心なり好奇心の目なり、とにかく自分に注目してくれる。そもそも、その物語を覚えるにあたっては、仲間(飼い主)が何度も何度も、自分の顔を見ながら、同じ内容をぺちゃくちゃ繰り返してくれたはずで、それこそ、そのセキセイインコ君にとって、幸福なおしゃべりタイムだったはずである。そして、自分が感じた幸福を他の仲間にも伝えようと、一所懸命に飼い主のおしゃべりを再現してくれているのが、セキセイインコの長語りの本質なのである。話の内容の意味など知るはずもなく、そもそもそのセキセイ君にとってはどうでも良い。いかに、自分を幸福にしてくれたおしゃべりを、どうやって再現するか、それだけがテーマなのである。
自分がその声でそのおしゃべりをすると、仲間たち(おもに人間)が真剣に聞いて、相槌なり感嘆感心なり好奇心の目なり、とにかく自分に注目してくれる。そもそも、その物語を覚えるにあたっては、仲間(飼い主)が何度も何度も、自分の顔を見ながら、同じ内容をぺちゃくちゃ繰り返してくれたはずで、それこそ、そのセキセイインコ君にとって、幸福なおしゃべりタイムだったはずである。そして、自分が感じた幸福を他の仲間にも伝えようと、一所懸命に飼い主のおしゃべりを再現してくれているのが、セキセイインコの長語りの本質なのである。話の内容の意味など知るはずもなく、そもそもそのセキセイ君にとってはどうでも良い。いかに、自分を幸福にしてくれたおしゃべりを、どうやって再現するか、それだけがテーマなのである。
つまり、本来、複数羽で大騒ぎするのが本性のセキセイインコは、集団で飼育する方が良い生き物ながら、残念なことに複数のおしゃべりは重なって騒音となってしまうため、数が増えれば増えるほど飼育は難しくなるという宿命を持っている。一方、1羽なりペアなり少ないと、生きがいであるおしゃべりコミュニケーションが限定されてしまい、元気を失うのも当然、という特質を示すことにもなる。そこで、飼い主が積極的に話しかけ、意味があってもなくてもペチャクチャと毎日コミュニケーションをとらないといけないのだ、と、専門外の私は理解している。
これはさほど難しいことではあるまい。セキセイインコ相手に、その日の浮世のことを愚痴っていれば、セキセイインコも満足してくれるはずだ(セキセイインコのおしゃべり同様、あまり感情は混じえてはならない。ただし、同じ話を繰り返すと、喜んで覚えられてしまう)。従って、そのようなことを薦めるセキセイインコの「専門家」が、いるのかどうか知らないが、とにかく話し相手として愚痴でも何でもしゃべまくる心構えこそ、セキセイインコを少数飼いする飼い主に必須であり、その点さえ注意すれば、本来群集で生活するセキセイの1羽飼育も、セキセイにストレスをかけずに実現できるものと思う。
これはさほど難しいことではあるまい。セキセイインコ相手に、その日の浮世のことを愚痴っていれば、セキセイインコも満足してくれるはずだ(セキセイインコのおしゃべり同様、あまり感情は混じえてはならない。ただし、同じ話を繰り返すと、喜んで覚えられてしまう)。従って、そのようなことを薦めるセキセイインコの「専門家」が、いるのかどうか知らないが、とにかく話し相手として愚痴でも何でもしゃべまくる心構えこそ、セキセイインコを少数飼いする飼い主に必須であり、その点さえ注意すれば、本来群集で生活するセキセイの1羽飼育も、セキセイにストレスをかけずに実現できるものと思う。
もちろん、文鳥に飼い主が愚痴を言うと、「知ったこっちゃねーよ!バーロー!!」とケツをまくって飛んでいってしまうことが多いので、文鳥の飼い主は真似し難い(鳴き交わしはあっても、同時におしゃべりはしない)。しかし、群集生活ではなく、夫婦単位か小家族による定住を基礎にする文鳥では、1羽飼育の手のり文鳥は、飼い主を仲間のヒトリではなく、伴侶と見なして特別視してくれるので、誰にでもフレンドリーに接しやすいセキセイよりも、1対1のディープな関係を築きやすい。
しかも、同様な性質を有するコザクラインコやボタンインコなどのラブバードよりも、声は小さく、ねじり噛む力が桁違いに弱いので、伴侶に対する羽づくろいのつもりでクチバシの先端でつねられても、血を見る可能性は低い。もちろん、ラブバードは、おそらく文鳥以上に伴侶に対する独占欲が強く、それだけに、よりよりディープな関係を築くのに適しているとも言える。
それぞれの種類には、それぞれの生態・習性に基づく違いがあるので、それをある程度わきまえて接すると、いろいろ面白いだろうな、とは思う。
で、せっかく脱線したので、長年考えている、文鳥はイヌに近いのかネコに近いのか、セキセイと言うよりインコはどっちか、という話題の考察に移りたかったのだが、なかなか困難になりそうなので、後日、おそらくかなり先の未来に、覚えていたら改めて考えたいと思う。
私の感覚では、文鳥はイヌにより近く、文鳥マニアも犬マニアと共通点が多く、インコは猫により近く、インコマニアは猫マニアとより共通点がある、ことになっている。しかし、文鳥には勝手気ままな猫的な要素が濃厚とも言え、飼育面でも複数になりやすく、その点、犬飼育より猫飼育の方が近いような気がする。逆にインコは、飼い主の口真似をしたり「芸」を学ぶ者も多く、その点犬の要素が濃厚で、しかも1羽飼育が多いのも犬の飼育を思わせる。
このように具体的に考えていくと、文鳥≒ネコ、インコ≒イヌのように思えるのに、全体としては逆に感じる理由が何なのか、その理由付けは困難なのである。なぜか文鳥≒イヌの主観が揺るがないので、私にとって、実に難解なテーマなのである。
私の感覚では、文鳥はイヌにより近く、文鳥マニアも犬マニアと共通点が多く、インコは猫により近く、インコマニアは猫マニアとより共通点がある、ことになっている。しかし、文鳥には勝手気ままな猫的な要素が濃厚とも言え、飼育面でも複数になりやすく、その点、犬飼育より猫飼育の方が近いような気がする。逆にインコは、飼い主の口真似をしたり「芸」を学ぶ者も多く、その点犬の要素が濃厚で、しかも1羽飼育が多いのも犬の飼育を思わせる。
このように具体的に考えていくと、文鳥≒ネコ、インコ≒イヌのように思えるのに、全体としては逆に感じる理由が何なのか、その理由付けは困難なのである。なぜか文鳥≒イヌの主観が揺るがないので、私にとって、実に難解なテーマなのである。
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