無償の善意に期待するのはさもしくないですか?


​脚で抑えて食べられる器用なタロ​​(※門外不出だからね!)
 文鳥の「里子」を求める人が、「有償でのお譲りはお断り」として、その理由を「文鳥が本当に好きな方からのみ、里子を募集したい」からだと述べ、さらに「文鳥好きな場合、自分の飼っている文鳥に値段をつけるのはあり得ないと私は考え」ると説明していて、いろいろ言われるのでは?と心配になった(有償で里親募集をする文鳥愛好者のすべてを敵に回している)。そこで、匿名のお節介焼きにゴチャゴチャ言われる前に、第三者がどう感じるものか書いておくことにする。
 さて、そもそもなぜ、「文鳥が本当に好きな方」が、自分で手塩にかけて育てた手乗り文鳥を、見ず知らずの他人に無料で差し上げられるのだろう?おそらく、この人は自分の文鳥をいくらお金をもらっても手放さないような真っ当な飼い主に相違ないが、なぜその価値観を共有する人が、見ず知らずの他人に我が子とも言える文鳥を譲らなければならない、と考えられるのだろうか?つまり、矛盾しているように思える。
 例えば、私の場合、基本的に自分の文鳥は門外不出と心得ていたのだが、世間的にあまりにも生体が販売されなくなっている危機感から、自家繁殖の文鳥を「分譲」するようになった(仕入れたヒナに不幸が重なったのも一因)。しかして、無料にはしない。値段をつけているし、あまり安くもしたくない。なぜなら、文鳥を育てるには手間暇をかけなければならず、その対価を求めるのは当たり前であり、一般のペットショップごときと比べられても嫌だし、より重要なのは、購入する人を判断する基準を持ち得ないからである。
 例えば、もう一人の私がいたとすれば、私として見れば無料で譲りたいが、逆に私なら、私からタダで手乗り文鳥を譲ってもらおうなどとは決して考えない。つまり、無料なら無料で、対価とすべくいろいろ手土産を持っていかねばならず、よほど面倒になる。「その程度のお土産で釣り合うと思ってるのか?」と言われたら、何しろプライスレスの価値なので、大きなつづらに大判小判をざっくざく用意しても追いつかないではないか?
 したがって、お金を払う方がよほど楽だ。もちろん、私自身はいつでもお金は無いが、日本なら、小学生でも貯められる数千円程度のお金を用意できないなら、そもそも生き物を飼うのは難しいのである(犬猫だったら「維持費」はケタ違い)。
 有償で分譲する側にしてみれば、見ず知らずの他人でも、お金を用意して買って飼うなら、それなりの自覚はあるはずだ、くらいの期待はできる。少なくとも、購入者は、その金額分の価値を文鳥に認めてくれているわけで、無料だから、とか、安いから、などと無責任な気持ちで飼い始め、無限の価値のある生き物の個性を見つけられずに終わってしまう危険性は、多少とも少なくなるだろう。
 結構、譲るなり売るなりする側も、いろいろ条件を付けるものだが、初めて飼う人に完璧を求められない。そのようにいろいろ条件を付す人にしても、初心者の頃は褒められたものではなかったはずだ。後進の努力こそ将来の希望だろう。
 無償の善意は美しいが、それに期待し要求すれば、さもしい(品性が下劣。心根が卑しい。意地汚い。見苦しい。みすぼらしい)だけになる。文鳥の価値がプライスレスなのは、自分が自分の文鳥としていつくしみ育てるからであって、それがどのような出自であるかは無関係だ。他人の善意にすがって施しの形で譲られようと、高価で購入しようと、迷っている子を拾おうと、そのようなことを気にする必要など、どこにもないと思うのである。

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