源頼朝を考える


 「不倫は文化だ」と俳優(?)の某氏が言って話題となったことがあるが、中世日本の英雄、源頼朝も800年以上前の夫婦喧嘩のさなか、終始そう思っていたに違いない。

 時は1182年初秋、日本史上空前の夫婦喧嘩が勃発する。夫源頼朝35歳、妻政子26歳。原因は妻の妊娠中の夫の不倫という今でもありそうなもの。とりあえず鎌倉幕府の準公式記録書である『吾妻鏡』の記事から、そこに至る経過を見ていこう。

『吾妻鏡』1182年6月1日の記事(以下我流現代語訳)
 頼朝様は愛人の亀前という女性を小坪(鎌倉市に隣接する逗子市最西端の地名)にある家臣小中太光家の家に招き住まわせた。愛人宅があまり近くにあると、世間体が悪いので遠くに住まわせたということだ。まして小坪は前浜に近いので都合が良かったということだ。この女性は良橋太郎の娘で、頼朝様が伊豆に住んでいた頃から、お親しくなさっていた。顔が整っているばかりでなく、性格もとても柔和な女性であった。春の頃から御密通され、日を追うにつれてご寵愛が深くなっていったということだ。

 この記事だけ読むと陰暦6月1日に、はじめて呼び寄せたようにも受け取れるが、春頃から「御密通」というのだから、妻の妊娠がわかった2月頃(3月9日に正式な妊娠期間へ入るための儀式『着帯』が行われている)から昔馴染みを近くに住まわせるようになっていたものとみて間違いない。何しろ、すぐ横の浜辺(前浜)で武士のスポーツである射芸が行われる小坪は、不倫と気づかれないように出かけるのに都合が良かったのである。それではなぜ6月1日の記事にあるのか不思議になってくるが、どうもこの月に愛人を巡って一悶着あったようなので、月のはじめに導入部のように記事をさし入れたものと思われる。

12世紀末期の鎌倉の市街 その悶着とは、まず6月7日。この日前浜(由比ヶ浜)で射芸大会と宴会が開かれるのだが、その酒宴の時に家来の一人加藤次景廉が気絶したため大騒ぎになり、宴会は中止になってしまう。と『吾妻鏡』に書いてある事件だ。
 それだけなら何でもないようだが、翌日、その気絶した家来の見舞いと称して出かけた頼朝が、なぜか帰りにはあっさり全快していた加藤次を伴って小坪の家に行ってしまっているのだから、おだやかでない。
 それでも、表面的に見ると騒動のため、宴会後に小坪の愛人宅へ行けなかった頼朝が、翌日それを実行したような印象を受け、さすがに大人物は転んでもただでは起きないというところだが、その受け止め方は甘い。何しろ、ただ小坪の愛人宅に行くだけなら、上述のように「日を追うにつれて」、原文では「追日」、つまり、たびたび、夜な夜な毎日でも通っていたはずなのである。何しろ小町大路をまっすぐ南下すれば、小坪まではあっという間につく距離(四キロ弱)でしかないのだ。
 そこで注意すべきは、実は気絶した加藤次も小坪の家の所有者小中太も、頼朝が1180年に数十人で挙兵した時からの側近の部下、気心の知れた使い走りだったという点だ。怪しい。7日の騒動ははじめから示し合わせての狂言だったとしたほうが自然ではないか。ただ、なぜそのような細工が必要だったのか疑問が残るところだが…。

 ともあれ先に進もう。夫のかなり露骨な愛人通いも身重な妻にバレず、7月12日には出産場所の比企谷の屋敷に政子は移っていく。頼朝の乳母であった比企尼を中心にした比企氏が、出産の世話係となっていたのだ(当時「血の穢れ」という迷信があったので、貴人は自宅での出産を避ける)。そしてちょうど一月経った8月12日、政子はめでたく男子(後の頼家)を産む。二人目の子供で、後継ぎとなるはじめての男の子だったので、鎌倉中がお祝いムード一色となる。
 それからしばらく比企氏の屋敷にとどまり、産後の養生をした政子は、10月17日になって赤ん坊を連れて自邸(後の大蔵幕府のあたりにあったと思われる)に戻る。

 以上が、夫婦喧嘩にいたる伏線で、いよいよ運命の11月10日を迎える。

『吾妻鏡』1182年11月10日の記事(我流現代語訳)
 これまでの間に愛人の亀前は飯島(材木座海岸沿岸辺の地名)にある伏見広綱の家に住むようになっていた。ところがこのことが政子様にバレてしまい非常にお怒りになられた。実は北条殿(政子の父時政)の妻(後妻、政子の実母ではない)牧の方様がこっそりと政子様にお教えしたのである。そこで今日、政子様は牧宗親(牧の方の実兄)に命じて、広綱の家を打ち壊し、散々に恥ずかしい思いをさせた。家が壊される中、広綱は亀前を連れて奇跡的に逃げ出し、大多和義久の鐙摺(あぶずり、三浦半島の横須賀のさらに南、堀の内辺り)の邸宅にたどり着いたということだ。

女グセが悪いといわれつづける頼朝さん 夫の不倫を知って、愛人の隠れ家を叩き壊したのである。何と猛烈で派手な行動であろう。おかげで、妻の政子は嫉妬深い猛女として歴史にさん然と輝く存在となり、そのイメージが現在一般的に信じられている。
 しかし、この一件でそう決め付けてしまうのは一方的に過ぎる。第一いつの間にやら小坪にいたはずの愛人亀前が飯島に移ってしまっていることを見逃してはならない。地図を見るとごく近いようだが、山をひとつ隔てた小坪は鎌倉の外側だが、飯島は内側なのだ。それがどうした、と思われるかもしれないが、当時の社会では境界の内と外では全くの別世界という認識が存在しているのである。
 さらに伏見広綱なる人物である。彼は、この年の5月12日に右筆(書記役)として召抱えられたばかりの人物なのだ。つまりその人の家となると新築のはずなので、当然、実ははじめから頼朝は愛人亀前のための居宅を用意するためにつくられた家だったのではないかという疑惑が生じる。となると、6月8日に頼朝がぬけぬけと小坪の小中太の家に行ったのは、亀前を新築なった飯島の家に移すのに関係していると見なせるのではなかろうか。

嫉妬の権化とされてしまった政子さん 愛人の家程度で、ずいぶん芸の細かい男だと思われるだろうが、これくらいでなければ、無一文の流人から関東武士の主人の地位にはなれないのである。そこいらの浮かれたおじさんが、外国人ホステスにマンションを買い与えるのよりは、慎重なのだ。
 しかし、バレてしまえば間抜けなだけだった。妻政子にしてみれば、自分が大きなお腹を抱えてつらい思いをしている最中に、夫は愛人を呼び寄せしげしげと通い、しかも愛人のために家を(鎌倉の中に!)新築していたのだから、これはもう、怒らない方がどうかしている。
 それに継母である牧の方が原文では「密々」とあるが、一体どのように告げ口したのかも、想像してみた方が良い。そもそも、政子の命令として打ち壊しに行っているのが告げ口した当人の兄だというのも、不思議ではないか。普通、この主人夫婦の喧嘩に牧宗親は巻き込まれたように言われているが、むしろ、彼がしかけた事件だったと見た方が自然であろう。宗親ならば実妹をたきつけて、
 「今度の亀前の家は立派だそうですわねえ」
 くらい政子の前でしゃべらせるのはわけない。何にも知らない政子は聞きただし、夫の不倫に驚きあきれ、怒りだし、
 「そんな家があるのは許せないわ。」
 何て言ったとたんに、近くに控えていた宗親が忠義顔して遂行してしまったのが実際のところではなかろうか。

 それでは、どうして宗親が積極的に暗躍するのか、残念ながらその理由は確実にはわからない。しかし、ひょっとしたら彼のねらいは亀前ではなく、伏見広綱のほうだったのかもしれない。広綱は「京都に慣れている者」として頼朝の右筆になるのだが、宗親も「京都に慣れる者」であったから、同じタイプの広綱が重用されるのを面白く思っていない可能性は十分にある。そんな風に考えると、政子は躍らされただけのような気がしてくるではないか。

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