北条時宗を考える


北条時宗のお顔 北条時宗、NHK大河ドラマで今時のイズミモトヤが演じることになったこの人物は鎌倉時代の1251〜1284年に生きている。その人生は34年とかなり短い。父親は時頼、母は北条重時の娘。当時の実質的政府である幕府の責任者を執権といい北条氏が独占していたが、彼はその嫡流家の嫡男として誕生しているわけだ(実は兄がいたのだが、こちらは妾の子として差別待遇を受けている)。いわば良家のボンだが、それでいて若い時から騎射が得意なスポーツマンで、長じては禅宗の坊さん(中国大陸から来た高僧)の元に参禅するなど、文武両道の人物であったといわれている。
 彼の業績として有名なのは弘安の役(1274年)、文永の役(1281年)における活躍。若くして執権となった時宗は、折から周囲を侵略して回っていた大陸のモンゴル帝国(元)との問題に直面し、傘下に入らないと軍隊で踏み潰すという皇帝フビライの威圧を断固拒否、大軍の侵略を二度受けるが、 その都度何となく『神風』が吹いて、侵略軍は海の藻くずとなり、水つくしかばねをさらしたという事件だ。
 この元帝国の侵略に対して、大国の恫喝にも屈せず、昔風に言えば護国に身を尽くした人物として、時宗は戦前(1945年以前)の日本でひどく人気があり、英雄の代名詞として賞賛を受けていた。ところが戦後(1945年以降)になると、腹違いの兄など反対派を巧妙に殺してしまっていることや、 モンゴル帝国から来た使者を処刑している事実をあげて、冷酷無残な人間という評価を受けるようになっている。

 さて北条時宗という人間は、文武両道で英雄だったのか、文武両道で冷酷無残だったのか ・・・。

北条氏簡略系図 英雄?確かにモンゴルが攻めてきた時の執権は時宗だが、当然何事も一人でやったわけではなく、補佐役もいれば幕府機構もある。したがって、もし執権が殺されてしまった腹違いの兄(時輔)であっても、モンゴル帝国の服属要求を拒否することに変わりはなかったような気がする。まして『神風』といっても、実際は台風その他の自然現象、もしくは侵略軍側の兵船の建造不良などによる難破と考えられるから、時宗がいようといまいと、これは『吹いて』、日本は侵略を免れたに違いない。
 冷酷無残?確かに兄の時輔を巧妙に葬っている。しかし兄弟といっても腹違いはライバルであり、血なまぐさい中世においては、その対立が殺し合いに発展するのがむしろ一般的だ。 あの源頼朝が義経を死に追いやっているのは有名だが、そうした例はかぞえていけばきりがない。また、使者を切ってしまったというが、これは、弘安の役の以降の使者に限ったことで、 戦端が開かれる以前は処刑していない。1275年に長門国室津にやってきた杜世忠以下の使者を鎌倉竜の口で斬罪にしたのも、正式な外交窓口である大宰府を無視し、瀬戸内の入り口である室津に上陸した行動をスパイ行為とみなした結果 と見なした方が良いだろう。まして、時宗が特別冷酷だから斬罪になったのではなく、誰が執権でも使者たちの運命は変わらなかったと思われる。

 つまり一般に時宗の人物を評価する基準となっているような事件から、 彼が際立った人格を持っていた証拠を得られない。別に時宗であろうが無かろうが、たいして違わなかった気がする。

 特別英雄でも、冷酷無残でもなかったとすると、文武両道のほうはどうであろうか。 この点について、なぜか今まで誰も疑っていないが、当然検討の余地は大きい。
 確かに、モンゴル軍の侵略に備えて、彼が主導する幕府が、さまざまな改革を行っているのは事実なので、優秀な補佐があったにしても、決して凡庸な人ではなかったはずだ。また、禅に傾倒し、高僧の発する公案
(禅問答で師匠が弟子にする命題)に四苦八苦していたらしいから、ずいぶんと学問にまじめな人間と考えて良いだろう。つまり文の方は非常に、というほどではなかったにしてもなかなか優秀であったに違いない。天才ではなく秀才らしいところが、かえって我々凡人には好感が持てる。

 問題は武の方だ。武、今でいえばスポーツだが、時宗にスポーツマンのイメージを与えている具体的な事例は、おそらく次にあげる小笠懸の話だけのようだ。

「次有小笠懸。而近代強不翫此藝之間。几無堪能之人。最明寺禅室覧之。有御自讃。於小笠懸藝者。太郎尤得其躰。召之欲今射云々。上下太入興。于時太郎殿御坐錬倉御亭。仍以専使被奉請之。為城介泰盛奉行。用意御物具等。御馬長崎左衛門尉就之。御的武田五郎三郎造進。エ藤二郎右衛門尉立之。既列馬場。被出御馬号鬼鴾毛。之處。此御馬兼慣于遠笠懸之間。欲馳過的前。仍被制弓引目。被留御駕。爰禅室一度通之後。可射之由被仰之時。一度馳通之令射給。其御矢中于的串一寸許之上。的如塵而擧于御烏帽子上。則自馬場末。直馳歸鎌倉給。諸人感聲動搖暫不止。将軍家御感及再三。禅室至吾家夫相當于可受継器之由被仰云々。」

 これは鎌倉幕府が作った編纂資料である『吾妻鏡』の弘長元年(1261)4月25日の記事の原文。このような漢文もどきは理解できなくて当然なので、適当に訳すと次のようになる。

 次に小笠懸が行われた。ところが最近この芸ははやらなかったので、まったくこれをうまくやり遂げる人がいない。最明寺禅室(北条時頼)はこの様子をご覧になって、自慢げにおっしゃるには、
 「ま、小笠懸の技だったら、我が子の太郎(時宗)が最もうまいだろうなあ。ひとつ、あいつを呼び出して、やらせてみようと思うぞ。」
 とのことだったので、これを聞いたその場の人々はとても喜んだ。その時太郎様は鎌倉のお屋敷にいらっしゃったので、お越しいただくように使者が送られた。
 いろいろな道具は安達泰盛が準備し、馬の支度は長崎左衛門がおこない、的は武田五郎三郎が作ったものを持ち出し、工藤二郎衛門がその的を設置した。すでに馬場前には人々が並び、『鬼鴾毛』という名の馬に乗った時宗様も馬場に出てきた。ところがこの『鬼鴾毛』という馬は、常日頃遠笠懸に慣らされていたので、的の前を素通りしようとしてしまう。そこで時宗様は弓を引く右手の手綱を絞られて、乗馬を引きとどめようとされる。この様子を見ていた時頼様が、
「一度的の前を通りすぎた後で、的を射るのがいいだろう。」
 とアドバイスされるので、時宗様はその通り、一度的の前を通りすぎてから矢を放たれた。するとその矢は的串の三センチほど上にあたり、的は塵のように粉々になって時宗様の頭の上の方まではじけた飛んだ。的を射ると時宗様は馬場末に向かわれ、馬場のはずれからそのまま鎌倉のお屋敷にお帰りになられた。
 これを見ていた人々の歓声とどよめきはしばらく止むことなく続き、将軍家(宗尊親王)のお褒めのお言葉も再三に及んだ。時頼様は、
 「あいつは北条嫡流を受け継ぐのにふさわしい器の持ち主だ。」
 と仰られたということである。

笠懸をする武士の姿 時に太郎時宗わずかに10歳!今で言えば小学校四年生。児童の身で馬にまたがり馬場に登場、大人が当てることも出来ない的を射ぬいて颯爽と去っていく。何と立派な若殿、 当時の武士として最も必要な騎射術に秀でたスポーツマン、その天才は隠しようもない。・・・と、普通ならそのように読み取って、何の疑いも差し挟まないのかもしれないが、本来幕府の編纂物である『吾妻鏡』が、その幕府首脳をたたえている部分などは、多少とも眉に唾して読む必要がある だろう。
 そう考え、とりあえず『吾妻鏡』のほかの部分に時宗の射芸の天才を示す記事を探してみると、何と一つもない。それどころか笠懸のような競技にこの後積極的に参加している様子 すらうかがえない。例えば毎年恒例の儀式である正月の弓始めの流鏑馬も、小笠懸の行われる弘長元年(1261)には観覧していたが、翌々年
(翌年は『吾妻鏡』が欠巻)弘長3年(1263)には「所労」つまり調子が悪いと称して欠席してしまっている。さらに不思議なのはその欠席の翌日の記事で、実は「疱瘡」(天然痘)だったと病名を挙げているのに、その後の経過に関する記載はまるでなし。当時の天然痘は死の病で、さらっと書き流せるよう病気ではない。北条家の御曹司がこれに罹患したら、医者やら祈祷やらで日本中大変な騒ぎになっても不思議は無いから、本当に疱瘡であったのかすら疑いたくなる。もしかすると、大した理由もなく儀礼を欠席したことの言い訳にする仮病であったかもしれない。しかしそれではまるで駄々っ子だが・・・。

 さらに『吾妻鏡』以外で時宗の評価を見ると、例えば『北条九代記』という本には、生まれながらに人情に厚く、誠実で仁徳が備わり、礼節も理想的なものがある。といったことが書かれているものの、武勇に関する記述はかけらもない。しかし考えてみれば、執権として幕府、というより実質的に国政を主導する人物に、小手先の武芸など必要はないのかもしれない。その点時宗の父の時頼も曽祖父の泰時も仁徳や智謀を評価され名君と称えられても、武芸で評価されるのを聞いた事がない人物だった。
 武芸は為政者に必要な資質ではない。それでは、なぜ小笠懸の的を射当てたに過ぎない息子時宗を、時頼は自分の後継ぎにふさわしいなどと言っているのだろうか。どうも慎重に検討する必要がありそう ではないか。

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