鎌倉北条氏の話−時頼の構想−


 世間では、大河の『北条時宗』が無茶苦茶やって(時代考証担当の先生は泣いているのではないかと・・・)、低視聴率の上に益々国民の時代認識を歪めてくれている。建物や構造物の考証に精を出しているようだが、時代の精神性の考証が皆無なのでは話にならない。あれの末尾には「このドラマはフィクションです」と断り書きをすべきだと思う。(2001年の話)
 それはともかく、なぜ「将軍の執事さん」に過ぎない北条なんて奴が威張っているのかわからないという嘆きを耳にするので、それに関連して少し考えてみたい。一つの氏族を見ることで、面倒な鎌倉時代の流れがつかめるかもしれない。

 実は、何で北条氏が威張っているのかという疑問は、今に始まった事ではない。1333年北条氏打倒のために抵抗運動を繰り広げていた大塔宮護良親王(後醍醐天皇の息子)は、時の得宗(北条氏本家の当主のこと)をこんな風に表現している。

          

 今でいえば「伊豆半島の地方公務員だった時政の子孫」である。今は威張っているが、由緒も何だか良くわからないという訳だ。もっとも武力闘争中の張本人の文句なので、そこにはかなりプロパガンダ(政治的宣伝)が含 まれていたに違いない。しかし、北条氏の先祖が大した身分でもない、馬の骨だという疑惑が一般的でなければ、このような中傷に意味はないのも事実であろう。

 それでは本当に北条氏は由緒の一つもない存在だったのだろうか。この問題を考える前に、まず当時の武士階級にとっての由緒とはどのような意味を持つものだったのか 、考えておきたい。

 まずNHKの例の大河ドラマでやたらと出てくる足利氏、これは源頼朝と同族で、さかのぼれば清和天皇(貞純親王は陽成天皇の息子ともいう)に行きつく。しかし大抵の氏族の先祖は天皇や貴族ということになっているので、それ自体はあまり意味がない。当時の人も言っている。
「誰か昔の王孫ならぬ
(祖先が天皇家につながらない者がいるだろうか)(『承久記』)
 大本までたどってしまってはありがたみが無くなるわけで、むしろそれ以降が関心の的となる。武士であるからには、武士としての家柄が物を言う。ひらたく言えば先祖に将軍であったり、武勲を立てた著名人がいることが重要であり、それを強調することになる。この辺りは今の人間には理解しがたいところだが、中世日本の武士は事の他先祖を大事に扱い、自分の存在のよりどころとして誇示する。いざ戦争、これから切ったはったといった場面になると、「やあやあ、我こそは」とお互いに自己紹介する習慣
(名乗り)があったが、そこで先祖の活躍を挙げて自らを粉飾したりする。

※ 事例として『保元物語』にある大庭景義の名乗りを簡略に現代語にしておく。
 
「すでにお聞き及びの事だろう。その昔、八幡太郎義家様の後三年の戦いの折に、16歳ににして最前線に進み出て、左眼を敵に射抜かれながらも応射して敵を討ち取り、その名前を後々までも語り継がれる鎌倉権五郎景政の五代の子孫、相模国の住人大庭平太景義」

 いろいろと由緒のある中で、源頼朝ほど武士の家柄として輝かしい先祖たちに彩られている存在はない。 この家柄は10世紀の平将門の乱でも登場する六孫王経基から軍事に関与しはじめ、その子満仲は貴族の護衛役となり(安和の変で摂関家の手先として暗躍)、さらにその子頼信は兄で大江山の鬼退治の主人公になる あの頼光に比肩する剛の者として知られ、その子頼義は前九年の役の武勲の人物、さらに後三年の役で奮闘した頼義の子供の八幡太郎義家に至っては、武士にとっては神様のように尊敬される存在だ。
 実はここまで足利氏も同じ血統をたどるが、義家の嫡子とされたのが祖父為義
(本当は義家の孫だが、義親が反乱を起こして義絶されている)なので、頼朝には義家の子孫の嫡流という箔までがついてくる。さらに、そうした 血統的由緒を背景にもった頼朝父の義朝が、関東の武士をまとめあげた実績まである(武力にものを言わせて紛争の仲介などをしていた)
 こうした代々の由緒によって、彼は武士の親玉
(棟梁)になる資格を有すると周囲に考えられていたし、自分でもそう思っていた。従って、家来もろくにいない流罪人のはずが幕府の主催者になっても当然のような顔をしていられる。
 足利氏の場合も八幡太郎の子孫なので、嫡流には一歩劣るが、棟梁になっても良いくらいの気持ちは持っていたに相違ないし、周囲もその資格くらいは認めた存在と言える
(義兼の母は頼朝の母と同じ一族で、終始頼朝に従って厚遇された。政子の妹が義兼の妻となって以来、代々北条氏から嫁を迎えているように嫡流家に準じる存在となっていた。最終的にその由緒を背景に足利尊氏が北条氏を滅ぼすことになる)

 同じ由緒といっても、三浦氏などの鎌倉幕府において御家人身分となる氏族は、違う意味で自己を規定する由緒を持っている。先祖に源氏の義家の子孫(これを特に「源家」と表記する)に臣従したという由緒である。一度臣従した祖先が存在する以上は、先祖が天皇であっても、すでに源家の家来の家系という枠がはめられているといっても良いだろう。
 つまり、源家に対抗するには同族であるか、由緒に源家への臣従がないことが必要となる。誰も彼もが、実力しだいで武家の棟梁になれるわけではないのである。
 例えば源家に対抗する存在といえば平家。平家は桓武天皇を祖先とするが、関東に土着した一族は後にほとんど源家の家来になってしまうので、これは由緒としてほとんど意味がない。彼等の先祖として特筆すべきは、あの首塚で有名な平将門を討ち取った貞盛であろう。元々は常陸
(茨城県)の出身なのだが、世渡り上手な彼は京都で貴族の護衛などに精を出す。そしてその子孫の中で、同じように京都でゴマすりをしたり、海賊退治に出かけたりして力を蓄え、源家が内紛を起こす(義家と弟たちの確執、義親の反逆)のに取って代わっていった系統が、12世紀の清盛の時代には貴族を凌駕する存在にのしあがることになる。彼らの家系は伊勢(三重県)を本拠とし、一貫して京都を中心にした西国に活動範囲を広げたので、東国を中心に活動する源家に臣従することはなかった。従って、同じ桓武天皇の子孫ではあっても 、関東の諸氏族と異なり独立した棟梁となりえる家柄なのである(源家と対抗させるために最高権力者の院【上皇・法皇】が意識的に重用したとも言う)

氏族名 勢力圏 清和源氏との関係
三浦氏 神奈川県の三浦半島一帯 頼信の代から臣従、頼義・義家のもとで奮戦、義朝の腹心として活動
千葉氏 千葉県千葉市一帯 頼義に臣従、所領争いで義朝の介入を受け臣従
畠山氏 埼玉県秩父市一帯 義朝に臣従、一族内部の抗争も絡んだようで一方は義朝の弟を擁したものの義朝の長男義平の征討をうける
梶原氏 神奈川県藤沢市周辺 頼義・頼家のもとで奮戦した祖先鎌倉権五郎を崇拝、一族の大庭氏は義朝に領地を侵犯され屈服
小山氏 栃木県小山市一帯 義朝に臣従、頼朝の乳母の婚家の一つ(他に比企氏、山内首藤氏)
安達氏   初代盛長は頼朝の乳母比企尼の娘婿、流人時代から頼朝に近侍

 さて、ようやく問題の北条氏。実は、北条氏の祖先も平家と同様に貞盛だったりする。しかし、こちらの系統は源家とも面白い関わりかたをして きている。
 祖先とされる一人、直方が問題の人物となる。有力な武士として京都でも活躍していた彼は、1028年、今の千葉県一帯で平忠常という人物が反乱を起こすと、朝廷の命令を受けて鎮圧に向かう。ところが この忠常の反乱とは貞盛系を含めた関東の平氏一族の内紛であり
(貞盛の父親の代に分岐している、将門も貞盛の従兄弟だった)、直方は朝廷のお墨付きをもらって反対派をつぶそうというのが、真相だったのである。忠常側としては官軍を名乗っていようと、やすやすとは降参できる相手ではない。結局火に油を注ぐ結果となり、同族間の食うか食われるかの死闘は泥沼化し、にっちもさっちもいかなくなった。
 戦乱で田畑は荒廃、年貢も入ってこなくなって、京都の朝廷も困ってしまう。そして当事者の一方の肩を持ったのが失敗だったと気付き、第三者に任せるべきだということになる。そして平直方に代わって鎮圧に当た る事になったのが源頼信、頼朝の祖先だ。頼信が現地に向かうと、今まで徹底的に反抗していた平忠常はあっさり降参して戦乱は幕を下ろす
(頼信と忠常は旧知で主従関係だったというが、忠常としては第三者による調停を期待しての降参と思われる)
 すっかり立場をなくし、恥をかいた形の直方だが、相手方は源氏の家来顔に収まってしまっては手出しが出来ない。うっかり意地を張って孤立すると自分の地盤もあやしくなる。そこで彼は娘を頼信の嫡男頼義に嫁がせて源氏に接近する。さらに鎌倉にあった という屋敷まで提供し、生まれたのが義家・・・といった言い伝えもある。

 後に幕府が開かれる鎌倉が出て来たり、都合よくカリスマ義家の母親に納まってしまうところは若干眉つばだが、『尊卑分脈』という系図集(室町時代に成立)にも直方の娘の注記に「頼義室」とあり、状況的にこの手の政略結婚は実際に行なわれたと考えて良いものと思 われる。地盤はあるが傾きかけた既存勢力と、盛んではあるが地盤がない新興勢力が、婚姻という形で結びつく、とりあえず対等合併といったところだ。

 頼朝の祖先と政子の祖先は夫婦であった。はじめから当人たちが意識したかはわからないが、政子が頼朝と駆け落ちした挙句に夫婦となった時、先祖の事跡にこだわる彼らがこの由緒を想起しないはずはない。ましてや、頼朝が一介の流人から東国の王者として、武士の上に君臨して以降となれば、北条氏は源氏嫡流の外戚になる家柄であると、その優位を直方の故事を挙げて主張出来た はずである。我が北条家は「鎮守府将軍直方以来、武家の棟梁たる源家を外戚として支えるべき由緒ある存在なるぞ」というわけである。これなら三浦や千葉や畠山、その他諸々の「家来の家柄」の氏族とは、別格の扱いがされても当然であろう。
 天皇家を補佐する外戚として藤原摂関家があったように、将軍家を補佐する外戚として北条執権家があっても不思議なことは何にもない。過去と現在の婚姻から由緒を主張して、自己の立場の優位を喧伝するだけで、当時の武士階級の中では十分尊重されたはずである。「馬の骨」どころではなく、由緒正しいお家柄と言って良いだろう。

 ところが不思議なことに、北条氏がその自らの正当性を示す由緒を周知徹底しようとした様子はうかがえない。少なくとも幕府の編纂書である『吾妻鏡』には、表面上その跡を見出せない。長く権力の地位にあった北条氏であれば、自らの由緒を捏造すること すら可能であったに相違無いが、捏造するまでもなく立派な由緒があるにも関わらず、それを宣伝せずに、鎌倉幕末には「馬の骨」扱いを受けるような立場に甘んじてしまったのは、一体なぜだろうか。

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