ジャクボーの納戸


 ついに、ここまで来てしまいましたね。ここから先は文鳥とは関係のないことしか載ってませんよ。ここはジャクボー(雀坊)、またはユウ・ジャクボー(有雀坊)、「有若亡」(有って亡きがごとし)からくるペンネームを称する人物が好き勝手をし、まったく脈絡なしに突発的に出現する危険なページで、その中身は何ら意味がありません。引き返されることを強くお薦めします。

▼△表紙に撤退する△▼『団地』に遁走する▼△


初秋には思索

金魚と亀

 『怪しい金魚たち』省略今、文鳥13羽、金魚5匹、亀1匹の人間以外の生物と同居している。金魚の水槽はなぜかトイレの中にあり、十年近く生存しているのもいる。そいつは変形したフナ(黒く尾ひれがヒラヒラ)だが名前はない。金魚で唯一名前があるのは、ブル。これは数年前,姪たちと縁日に行った際に買った金魚で、選んだ姪は「ミミちゃん」と名づけた。ところが人一倍食い意地のはっていた「ミミちゃん」はぶくぶくと巨大化し、目の周りの肉が目を隠すほどになり、強制的にブルと改名された。

 亀の来歴はいまいましい。ミシシッピーアカミミガメ(通称ミドリガメ)、の奴は去年の酉の市の日に愚父が買ってきた二匹の生き残りである。実は、この数時間前に彼の孫(姪)が一匹の亀を買っており、この間抜けな老人(愚父)は、「一匹じゃかわいそうだから」と称して、誰にも言わずに買ってきたのだった。ところが、買ってきたときにはすでに孫の姿はなく、電話口の姪の母親(愚姉)は当然のようにそんな面倒なものの受け入れを拒否。結局二匹は行き場を失い、バカジジイ(愚父)に飼い殺しになりそうなところを、散々の小言の末、ジャクボーが引き取り、「カメカメ」「エブリバデ」と名づけたのであった。このうちの「カメカメ」があつかましくも生き残り、人の顔を見てはエサをねだり(たち上がり、亀踊りを披露する)、すでに倍以上の大きさになっている。

 と、書いている間に、五、六年前から居たウルトラマン模様の金魚が死んでしまった。かとおもえば、ドバトのヒナが落ちていた。巣は五メートル上方、しかもコンクリートの壁のさらに上の、とびでもない限り、一般人の手の出せないところにあるようだ。仕方がないので、ニ、三日前に舌打ちしながら連れかえったのである。

 

過去の飼育

 基本的にやたらいろいろなものを飼って、結局飼い殺しにしてしまい、無責任、いい加減に生物を飼ってきてはいけないと骨身にしみているので、あまりたくさん生物を飼いたくないと思っている。。カブトムシ、クワガタ、鈴虫、コオロギ、キリギリス、バッタ、カマキリ、アリ、トンボ(ヤゴ_)、ゲンゴロウ、ザリガニ、カニ、カエル、メダカ、デンデンムシ、他にもたくさんあったろう。ろくに飼い方もわからず、世話をせず死なせてしまった生物が。がんばって世話したつもりの動物たちの死にも直面してきたなあ。文鳥、十姉妹、ハムスター、犬。まさに屍累々である。

 ハムスター(キングハムスター、当時小じゃれた種類は存在しなかった))は確か幼稚園ぐらいにつがいをもらってきて、最盛期には十九匹はいた。生まれたての子供を食べてしまうし、あまり好きではなかったが、ある時期一気に消滅してしまった。病気だったのだろうか。

 その後、例の愚父が気まぐれで文鳥のヒナを買ってきて、さらに十姉妹を買ってきて、さらにさらに迷い犬を保護し…。我が親ながらなんと無責任な男なのであろうか。この老人は、過去にモグラまで飼っていたという典型的飼い殺し人間で、「誰も買わないとかわいそうだ」と例の亀を買ってきて、ドジョウ(食用に買ったつもりが飼いたくなったらしいが、水槽に入れることをジャクボーに拒否され、バケツの中で買い殺しにしていた)と一緒にし、半死半生の状態に追い込んだ。寒さの中、ドジョウは一匹、二匹と死んでいき、カメたちはその死骸の横を無反応に浮かぶという地獄図であった。

 脱線して、身内の恥をさらしてしまった。たが、犬の場合も同じだった。愚父の無責任によって(愚母が反対し近くの公園に一時捨てたら、近所の人が親切に連れてきてしまったというドタバタの末)我が家の住人となった(犬としては、我が家の前のすし屋に入り込みたかったらしいが、愚父がおせっかいして連れてきてしまったらしい)。白くて尻尾のないその中型犬は、愚姉によってパピーと名づけられた。小学校五年生のときだった。そのパピーも数年前骨肉腫のようなものになって死んでしまった。何だかんだと十五年ほどの付き合いで、最後の闘病は数ヶ月に及び、その時は毎日包帯を変えたものだった。その死にはさすがに心さびしい思いをした。
『尻尾のないパピーちゃん』省略

ペットロス

 しかし、我がパピーはえらいことに、その死とともにお土産を残していった。小さいのがたくさん。宿主をうしなったノミが家中を恐怖のどん底に叩き込んだ。悲しがってる暇はない。バルサンをたくわ、蚤取粉を散布するわ、ノミとり器を設置するわ、えらい騒ぎになった。

 まあ、とにかく、そのやたらペットの死を経験している生い立ちからいって、ジャクボーという人間はペットロスには大変強いのである(以下、実際にペットロスにお悩みの方は読んではいけません)。

 どうせ人間も含めて生き物は死ぬし、第一ペットの死を見取るのは飼い主の責任なのだ。逃げてはいけない。さらに突き放していってしまうと、ペットロスというのは自分とペットを同体化してしまうために起こっているように思う。ペットが死んで悲しいのは当たり前だが、自分を見失うほど激しい喪失感を味わうのは尋常ではない。どうも、ペットが死んで悲しんでいるのではなく、ペットを自分の分身と見なし、実は分身、つまり自分が死んだから悲しんでいるように思える。しかし、どんな愛玩動物も自分とは違う生き物なのだから、それを勝手に自分と一緒くたに考えるのは、人間のおごり以外の何物でもないと思う。

 パピーの時は、ノミによって感傷的な気分が壊されてしまったが、その感傷も、ペットロスではなく、十年来の友人が先立ったという感覚で、あくまでも、自分の一部が喪失したなどといった感覚ではなかった。何しろ、ペットにしろ、人間(他人)にしろ、自分の分身のように考えるのは、相手を認めない失礼なわがままな態度とも一面ではいえるのだ。あるいは亡くなったのが同じ人間であれば、一心同体と言えるほど密接だったことに、一種の美しさを感じることもある。例えば、先日奥様の後を追った評論家の自殺を、非難する人はもはや人間ではないだろう。しかし、残念ながらペットは人間と対等な存在ではありえない。いくら愛情を注いでも、人間的な愛情で報いてくれる存在ではなく、それを求めるのは無理なのである。ペットが飼い主である人間に持つのは、愛情ではなく、うまく表現できないが、愛着といったところだと思う。

 第一、他の生物をペットとして拘束しておきながら、これを人間と同格視するなど、矛盾であり、笑止ではなかろうか。

          かといって、単細胞の動物愛護団体の主張に従い、ペットを野に放したら、
         不自然な彼らは生きてはいけない。さらに良く人間と動物の環境については
         考えるべきだ。なぜか佐渡島で中国産の子供を生ませたトキにしても、全く
         自然な動物かと言えば、違うだろう。彼らは人間の水稲耕作に密接に結びつ
         き繁栄した種類なので、人間が田んぼづくりをやめたら衰退せざるを得ない、
         一面の不自然さを有していることに留意すべきだろう。

 多重人格というのは、普段の自分とは違った人格を無意識に作り上げ、そこに逃げ込むことによって起こるそうだ。ペットを飼い主である自分の分身と考えるのは、これに似ているかもしれない。ペットを別人格の自分と勝手に思いこんでいるのだ。これは健全な精神行動とはとても思えない。他人は他人、犬は犬、猫は猫、鳥は鳥、金魚は金魚、親しくしていたり、かわいがっていたそうしたものが消えてなくなれば、悲しいに決まっている。しかし、それをもって、精神を失調するまで喪失感に浸りきるのは、本当にそのペットを愛していたといえるのだろうか。実は自分自身を愛していただけなのかも知れない。

うーむ、何を言いたいのかわかんなくなってきた。

 何しろ、『文鳥の系譜』などを久しぶりに見ると、文鳥が死ぬと翌日には別の鳥を買いにいっている自分を発見するので、遠まわしに自己弁護(自分自身に)がしたくなったのである。別に一つの生命の死を、他で埋め合わせられるとは思っていないし、ペット(普段は同居生物と言う意識が強い)が死ねば十分悲しいのだが、やたらと割り切ってしまえるのである。これも普段から、「パピー犬」とか「ヘイスケ鳥」と呼称して、人間とは違う生物であることを自分自身に言い聞かせている賜物かもしれない。(1999/9)

 

お終い


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